2025年12月14日
[本]

ここは墓の中か?
男の、とめどない記憶.
『夏の夕涼みか、前栽に面した縁側でわずかにうつむき、風呂上りの濡れた黒髪を指先でかき上げながらラクロに読みふける女は。
そういえば定家の一首にある。
かきやりしその黒髪の筋ごとにうち臥す程は面影ぞたつ、と。』
と、800年前に死んだ歌人があらわれる.
『さてまた、かきやりしその黒髪のと詠みけるその人、いづこともなく石積みの墓室に臥したる夢を見き。
五臓へ骨へ、しん、しんと静けさが沁みとほる心地す。
けだし氷に音あらましかば、かくあらまし。
しばしおとなふものなき半闇に身をゆだねし間、然らぬ思ひは浮かびもせず。』
男と、正二位権中納言藤原定家が、墓の中で、時を隔てて交歓し、現代文と古文とが怒涛のように交錯する.
おもしろい.
『いい加減セックスに飽きると、女は布団のなかで『寺島町奇譚』を読み始め、いつの間にか敷布に顔をうずめてひくひく笑いだす。
カッパン、コッポン、カッパン、コッポン。滝田の漫画は、戦後間もない東京の下町の私娼街の路地をゆく駄馬の、蹄の音がいまにも聞こえてきそうだった。』
『なにがジョイスだ、駄菓子をぎっちり詰め込んだ大風呂敷みたいな小説のどこがいい。』
『曰く、源氏物語の少女趣味の下には王朝文化の男と女が負わされていたそれぞれの性の役割の、圧倒的な抑圧と逃げ場のなさがある。
生霊や物の怪を生むほどのその薄昏さは、現代の男子学生ごときに想像できるものではないというのが正しい・・』
『ダンテが、自分は生も死も欠いていたと筆舌に尽くしがたい苦しみを謳うのは、ルシファーが閉じ込められている地獄の最下層でのことだったが、鉛直方向の視線はまさに、死んではいないが、生きているのでもない反自然の視線をもたらす。
それに比べれば、職業歌人として折々に春夏秋冬、恋、旅、山家、名所、法文、感懐と水平移動する定家の視線はなんと穏やかで馥郁(ふくいく)としていることか。』
著者の視点は縦横無尽、世界を駆け巡る.
終盤、くりかえし能の物語が、男の脳裏にあらわれる.
男は、父への反発から、裁判所の速記者として一生を送ったが、男の父も祖父も能のシテ方をつとめていた.
男の祖父と男の娘は、自死した.
『十歳になるかならないかのころ、何かの偶然で訪れた能楽堂で父の舞う『求塚』を観たときではなかったか。
そうだ、そのとき子どもは初めて父の小面に潜む鬼をはっきりそれと認めたのかもしれない。
清冽な早春の野で菜を摘むうつくしいうないおとめの小面が、ふいにあの弥勒菩薩半跏思惟像の横顔と重なって見えた瞬間、ふっと鬼が顔をだし、子どもは息を呑んだ。
それは、うないおとめの霊が旅の僧を呼び止めて求塚の哀しい謂われを語るくだりのことで、およそ微笑みとは対極の、自らと二人の男の凄惨な悲劇を語りながら、女は奇怪な笑みを浮かべる。』
私は最初、折口信夫の「
死者の書」を思い出したが、ちがう.
折口の死者は、もっとおぞましく、暗い.
この書にあるのは、生者の果てしない繰り言、である.
この物語の最後に、男が、救急車で運ばれるとおぼしき場面が出てくる.
男の最後の言葉は「うないおとめ」
「市民ケーン」のO.ウエルズがつぶやいた「薔薇のつぼみ」のように、それは実体ではなく、記憶という名の穴ボコだ.
この物語の全体は、死にゆくものが一瞬見た長い夢なのだ.
高村薫の小説は、どれも圧倒的な情念の奔流に満ちているが、この書は、それが一瞬にみえる.
「
阿漕」や「
求塚」にあるこの世界の不条理は、人為を超越していて、人間の自由意志など吹き飛ばしてしまう.
それを垣間見たものは、立ちすくむしかないのだろう.
「生」を前にして立ちすくむのは、「人間」だけである.
私はおもう、どんな「つまらない人間」の一生にも、この男に等しいドラマツルギーがある.
それが、たまらない.
死者は死体ではない.
死体はやがて朽ちて名前を失うが、死者にはいまだ名前がある.
死者は骸骨の形をしたエントロピーの穴ボコで、宇宙という墳墓は、穴ボコだらけなのだ.