錆びたナイフ

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2015年10月25日
[映画]

道成寺/火宅 1976/1979 川本喜八郎


「道成寺」

「火宅」


どちらも19分の人形アニメーション映画.
昔都内の上映会で観たのだが、今はビデオで観られる.

「道成寺」は、能も歌舞伎も、安珍清姫事件の後日譚だが、川本喜八郎のこの作品は、事件そのものを描いている.
台詞もナレーションもない、弦と笛の音、サブタイトルが「熊野詣」「旅の宿」「方便」「愛憎」「日高川」「道成寺」「鐘」と出るだけ.
若い旅僧が、一夜の宿を乞うた家の娘に言い寄られ、お参りが終わったらまた来ると約束して旅立つ.
しかし旅僧は来ない.
裏切りに気づいた娘は僧を追う.
街道を走りながら、娘の形相が鬼に変わる.
風の強い日高川を旅僧は渡し船で逃げる.
娘は川を渡ることができない.
川に飛び込んだ娘は、激流の中で龍の顔をした蛇に変わる.
旅僧は道成寺に逃げ込んで助けを求め、鐘の中に隠れる.
蛇は鐘に巻きついて炎を吐き、中にいる男を焼き尽くす.
蛇は娘に戻って日高川に身を投げる.

一度観たら忘れられない映画で、人形は、生身の役者より怖い.
娘の執念には、どんな法力も無効だったのだろうか.
この旅僧が若くて未熟だったのは事実だが、焼き殺されて成仏したのだろうか.
僧が求めた訳ではない、いわば娘の一方的な片思いで、騙された、思いが叶わなかったという恨みは、ここまでヒトを追い詰め、狂気を生むのか.
鐘に巻きついた蛇が血の涙を流す.
この娘の、世界も終われという絶望が胸を打つ.
「鐘に恨みは数々ござる」
能も歌舞伎も、その後に現れる娘の霊が恨んでいるのは、不実な男ではなく、鐘である.
この旅僧はすっかり忘れ去られ、物語は鐘だけ、つまり人間の業だけが残った.

「火宅」は、能の「求塚」が題材で、旅の僧侶(声:観世静夫)が物語る.
幽玄な音楽は武満徹.
僧侶が摂津の国で求塚を探し、野にあらわれた娘からその由来を聴く.
五百年前、菟原処女(うないおとめ)という娘が、二人の男から求愛され、どちらとも決めかねていた.
男たちは鴛鴦(オシドリ)に矢を射るという勝負するが、それを見た娘は自分を巡る争いをはかなんで、川へ身を投げてしまう.
二人の男は、それを知って悲しみ、お互いを刺して死んでしまう.
娘が言う.
「これさえも私の罪になるのでしょうか、なにとぞわが苦しみを救いたまえ」
僧侶が読経すると、娘が黄泉の国で、自分の罪に苦しんでいる様がみえる.
死んだ男ばかりか鴛鴦にまで責められている.
火宅の炎に焼かれて川に身を投げれば、川が紅蓮の炎と化す.
信心深かったこの娘さえ救われず、その苦しみは五百年続いているという.
僧侶は、娘の霊を弔うが、帰りゆく野道は朝焼けに赤々と染まる.
罪とか罰を通り越した、不条理の極みのような話である.
これは、人類の原罪を背負う救世主といった観点がなければ、成立しない話だと思う.

どちらもしんどい話なのだが、
性悪女に岡惚れされて逃げまわる坊主とか、惚れた女に死なれて男同士で心中してしまうとか、私に言わせればこの話は「喜劇」ではないか.
優れた作品は「悲劇」と「喜劇」が等価なのである.
誰もが、自らの人生を惨劇と思うか滑稽と思うか、ここまでやればもはや、泣き疲れたあとの静寂だけが残る.


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