2025年12月4日
[本]

"現存在なんぞになりたくはない"
死を宣告された王子が、とある老人と出会って、ハイデガー哲学に目覚める、という話.
王子が先生と呼ぶ老人は、こう言う.
『複数の道具体系が重なり合ったもの、それが世界である』
『おまえにとっておまえは「世界においてかけがえのない存在」であるにもかかわらず、相手から見れば「ただの道具にすぎない存在」として世界に現れている。
それだけではなく、人間は、相手から道具だと思われながら日常生活を営むうちに、ついには自分から「自分自身を道具だと思い込む」ようになる」』
王子
『死は「私の道具性(代替可能で本質的には無価値なモノ)」という非情な現実を突きつけてくるから、こんなにも恐ろしいのだ。
死は、せっかく忘れていた「私の道具性」を思い出させてしまう。
死は、私という存在がスプーンやフォークのような「取り換え可能な道具のひとつ」にすぎず、最後は壊れてゴミ箱に捨てられ、誰にも省みられず、ただ消えゆくだけのモノにすぎないことを思い出させてしまう』
人間の「認識」は「名前をつけること」に依存している.
「名前」は、人間がそれを道具として利用することに依存している.
これはハイデガーの洞察力の至高だと思う.
しかし道具が取り替え可能だから無価値、というのは解せない.
ダビンチの「モナリザ」は取り替え可能ではないし、私が大切にしているサボテンは、取り替え可能ではない.
この書の著者は「道具性」を「社会的な役割」程度としか考えていない.
また「価値」とは何かということに、全く言及していない.
老人
『「死」だけが、おまえが交換できない「かけがえのない存在」であったことを思い出させてくれる。
なぜなら、「死」とはおまえ固有のものであり、代理不可能な、おまえだけの問題であるからだ』
この書が到達したハイデガー哲学は、ここまで.
『「負い目」とは有限性への扉だ。人間が、無力であり、限りのある存在だと知らせてくれる大事なメッセージだ。
そして「死の先駆的覚悟」を持つということは、究極の有限性すなわち「死」に向き合って生きるということ。
だから、おまえが一瞬感じた「負い目(自己の有限性)」をそのまま見逃さず、向き合っていれば「死の先駆的覚悟」――「本来的に生きること」だってできたかもしれない。』
「死の先駆的覚悟」というのは、四六時中死のことを考える、ということではなかろう.
一遍上人が、「すなわちとく死なんこそ本意なれ」というのは、死にたいと願うことでも、生きたいと思うことでもない.
生活を、針の先のように「臨終」へ引絞って、生も死もない境地へ到達するということだ.
ハイデガーの発想は仏教に接近する.
ただし、浄土もなければ、阿弥陀如来もない.
『(人間は)必ず死ぬ
いつ死ぬかわからない
死んだら終わり
死ねば無関係
死は代理不可能』
死は、圧倒的である.
「お前は死ぬ」という事実を突きつけられた王子は、死が生を呑み込み自分がなくなる、という恐怖にかられる.
「顔とは他者である」と言ったのはレヴィナス.
つまり、人間は他人の存在でできている.
されば「死こそ、死のみが、おのれ」なのである.
時間とは何か
『ようするに、過去とは「何だかよくわからないけど、えいやと投げ込まれてしまった、どうにもならないもの」であり、未来とは「何だかよくわからないのに、自分自身をえいやと投げ込むしかない、どうしようもないもの」』
さらに、現在とは、無力さを突きつけられる世界だ、と王子は理解する.
人間は、動的な、可能性のかたまりなのだが、これでは身も蓋もない.
ハイデガーのいう人間の可能性とは、出世するとか金持ちになるとか人のためにつくす、ということではなく、歩くとか食べるとか歌う、ということである.
そんなことは鳥にだってできる?
いや、鳥は、意図的にそれをすることができない.
この物語の最後は、オスカー・ワイルドの「幸福の王子」そのもので、王子の像に頼まれたツバメは、像についた宝石や金箔を貧しい人々に届ける.
冬になってツバメは死に、王子の像は崩れ落ちる.
この話のどこが「本来的な生き方」なのだろう.
最後に神があらわれて、王子とツバメを祝福するなんぞ、「死んだら終わり」じゃなかったのか?
「おしゃべりと好奇心に満ちた生き方」は「人間本来の生き方」ではない、と老人(とハイデガー)は言う.
「非本来的な生き方をしているキリン」はいないが、「非本来的な生き方をしている人間」はいる?
生物はありのままに生きているのであり、そもそもこの世界に「非本来的な生き方」などない、と私は思う.
もちろんハイデガーは、「本来的」という基準を、宗教や道徳ではなく、彼が考える人間の存在のありようから導き出している.
そのことは、不安はよいが恐怖はよくないといった、微妙な解釈のブレとして提示されている.
日常生活の中で、「本来的」と「非本来的」とを区別しようする行為そのものが、人間を人間たらしめているのであって、「本来的生き方」という確固とした基準があるわけではない.
ハイデガーが、「非本来的な時間理解」とした「時刻=時計=時間」という見方も、日常生活では欠かせないのである.
そもそも「人間=現存在」という考え方は、人間の進歩や優位性をあらわすものではない.
そのことにハイデガー自身は気づいていた、と私はおもう.
「死を思う」のが「現存在」だというなら、
風に揺れるけやきの木も、空高く舞うヒバリも、母親の腕の中で泣く赤ん坊も、かけまわる子供たちも、「現存在」ではない.
人間の大人だけが「現存在」たりうる.
すると、彼が背負っている「本来的な生き方」というのは、ひっきょう「煩悩」と等価ではないのか.
だからこの本のように、ハイデガー流の壮絶な思考が、手垢にまみれた人生訓と裏返しになる.
いつのまにかガラクタの山に登っているようだ.
命は、圧倒的な歓喜である.
わたしは、現存在なんぞになりたくはない.