錆びたナイフ

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2025年4月18日
[本]

「ヒトの原点を考える」 長谷川眞理子


「ヒトの原点を考える」



「進化生物学者の現代社会論100話」
表紙の絵がすべてをあらわしている.
原始人がスマホを持って、電車で通勤して、ソフトクリームを食べてメタボ腹になっている.

『赤ちゃんが犬を見て、「ワンワン」と言う。お母さんがそれを聞いて、その犬を見てから赤ちゃんを見て。「そうね、ワンワンね」と言う。
 この単純なやりとりのもとには、「あなたがワンワンを見ているということを私は知っている、ということをあなたは知っている、ということを私は知っている」と心の入れ子構造の理解があるのだ。』
こういう話が実に面白い.
赤ん坊や動物を研究することで、人間のすごさがわかると同時に、「ホモサピエンスは、生物としては、20万年前からほとんど進化していない!」と著者は言う.
ここ1万年、特にこの数十年の社会の激変は、人体の歴史からみれば異常であり、これは我々にも地球にも悪い影響を与えているに違いない、というのが本書の主旨だ.
人類学者はみな同じような危機感を抱くらしい.
身ぶりと言葉」 アンドレ・ルロワ=グーラン
サピエンス全史 上下」 ユヴァル・ノア・ハラリ
人体600万年史 上下」 ダニエル・E・リーバーマン
と同じ発想だ.
共通しているのは、現代社会に対する不信と嫌悪.

確かに現代社会は多くの問題をかかえている、ようにみえる、ではどうすればいいのか.
『「ビッグヒストリー」で紐解けば、現代社会の見方が変わる』
つまり人類600万年の歴史から現代をみれば、その問題点が明らかになる.
結論を言えば、科学的・合理的な考えにもとづけば、問題の解決は可能だと、著者は考えている.
しかし、読み進むと、そうではない.
著者が思うように世の中は「進歩」しない.
『科学の進歩は、途中で停滞があったり、いらぬ横道にそれたりということもあるが、長い目で見れば、確実に前進している。
100年前と比べれば、知識は細部にわたって詳しくなり、総量が増えた。技術の世界もそうである。自動車も洗濯機も、現在のものは50年前のものよりも格段によくなった。「よい」という意味は、まずはその本来の機能を果たす上での向上である。また、排ガスを減らす、水の利用を効率化するなど、本来の機能の向上に伴う副次的な側面においても、現代では格段に向上した。』
これはほんとうだろうか.
洗濯機が「よく」なったのと、地球環境が「悪化」したことは、背中合わせではないのか.
著者は、環境の悪化は、金儲け主義の企業のせいで、科学のせいではない、と考えている.

ロシアのウクライナ侵攻について、
『それにしても、独裁政権というものは、これほどまでに独りよがりな意思決定を可能にさせるものなのかと驚いてしまう。
 ウラジーミル・プーチン大統領は、長年にわたって自らの権力を拡張し、自分の言うことにうなずくだけの側近を集めてきた。その結果、自分の希望にとって都合の悪い情報はそもそもプーチンには届かず、どんな判断をしても、それに再考を促す人間も機関も存在しないのだろう。』
『(第1期)トランプ氏が大統領であった四年間、アメリカも世界も心底傷ついた。民主主義の価値観や基本原則が蝕まれ、何よりもアメリカ国内の分断が深刻さを増した。
 なぜここまで分断が深まり、議事堂襲撃にまでエスカレートしたのか。それには、ツイッターなどのSNSが大きな役割を果たしたという。それはその通りだろう。新聞、雑誌、テレビ、ラジオなど、それまで普通であったメディアと異なり、SNSは、個人が不特定多数の人々に直接情報発信することができる。
 内容は、嘘でも何でもよい。それを受け取った人たちがまた別の人たちに送れば、情報はどんどん拡散していく。しかも、匿名でも可。このような新規のメディアの発明を最大限に利用したのがトランプ氏だった。根拠のない話、全くの嘘、感情的反応などが満載の内容を発信し続け、人々をあおった。』
著者はほんとうに、1億4千万人のロシア人が、政府に強制されて自国の大統領を選び、3億4千万人のアメリカ国民が、SNSに騙されて自国の大統領を選んだ、と考えているのだろうか.

『科学的な説明、論理的な説明というのは、「Aが原因でBになった」という単純な説明であるとは限らない。理解するにはかなりの努力を要する、複雑な過程が含まれることのほうが多い。
 学者という道を選ぶ人たちは、他の人たちが考えないようなことを考えること、普通は当たり前だと思われていることを当たり前だとは思わないことが、楽しいと感じる人たちなのだ。つまり、懐疑主義と批判精神が楽しい人たちである。』
同じ著者の言葉とは思えない.
どんな高名な学者も、世間一般の出来事に関しては、テレビしか見ないおばさんと同じ、ということか.
いや、このことは、もっと深刻な問題をはらんでいる.

著者は、一般大衆が、既存のマスメディアや学者たちの意見を信頼し、SNSのようなウソ情報にあおられなければ、トランプのような大統領は出現しなかった、と考えている.
話は逆なのだと私は思う.
大手のマスメディアだから大学教授だから「その意見は正しくない」と、アメリカ国民は心底感じるようになったのである.
なぜなら、世界の情勢が、自分たちの生活が、一向によくならないからだ.

今年、第2期トランプ大統領が誕生し、地球温暖化対策のパリ協定を離脱し、WHOを脱退し、石油を掘りまくれと号令している.
アメリカの国民は圧倒的多数で、再びこの大統領を選んだ.
著者は地団駄を踏んでいるだろう、世界は間違っている、と.

対面の会話でウソをつけば表情や態度でバレてしまうが、SNSのような文章では、いくらでもウソをつくことができる、と著者はいう.
私は数年前、Youtubeでこの著者の講義を見て、才気あふれる研究者だと思ったし、内容も面白かった.
この本を読んで感じるのは別のことだ.
一般書の文章は、数式や論文とはちがって、作者の思いがそのまま出る.
著者がその一文にどれほどの確証をもっているのか、単なる思いつきか他人の受け売りか、読む者にはそれがわかる.
自然言語のすごさである.

ネットは、正しくない情報もあふれているが、同時に、正しい情報もある.
そこでは、発信者が大会社だから大学教授だから、というレッテルは通用しない.
ネットを検索する読者は、自らの経験を総動員して、その価値判断をするしかないのである.
それは人間にとってごく当たり前のことだ.
科学者は一般人を超えた高度な知識と経験を積んで、科学的合理性に基づいた発言をしている.
だからその意見は、誰にとっても正しく、反対は無知に基づいていると、この本の著者は思っている.
だから玉石混淆のネット情報が、胡散臭い、腹立たしい.
ある時の科学的知見が常に正しいと考えることそのものが、科学的ではないし、そもそもこの本の論旨は、科学的合理性で成り立っていない.
代議士や大学の先生が、世の中全般について高い見識をもち、その言動が人々から信頼を得ていたというのは、大昔の話だ.
著者は想像もできないだろうが、科学がもてはやされると同時に、科学者が信頼されないという時代がやってくる.
問題は、科学者がそのことに無自覚であることだ.
世界の分断とは、この「無自覚」のことである.

学者は、学問の研鑽を積んで、ある時期に、それを捨てるべきだと、私は思っている.
捨てられない学問は、単なる生活の糧か、やめようのない麻薬のようなものだ.
人類600万年の歴史の中で、人類が科学的合理性を身につけた時期など無いに等しく、有史以来、人間が自らの人生を科学的合理的に判断したことも、ない.
著者の「生物としての人間」に関する洞察は見事で、開放感があるのに、社会を論じるとなぜこうも息苦しいのか.
われわれがみているのは、「科学」という名の想像力の劣化なのだ.
「環境にやさしい車」というのは「ヒトにやさしい拳銃」というのと同じで、そんなものはありえない.
人為的に抗体を作り出すワクチンは、人体にとって「進歩」ではなく「退歩」である、にもかかわらず、
そういったたぐいの安易な科学万能キャンペーンに、科学者自身が無自覚に便乗している.
科学が産み出した諸問題を、同じ科学で解決しようとすれば、その行き着く先がこの世界であり、その究極の姿が「AI」だのだ、と私は思う.

今世界には、巨大な揺れ戻しが起こっている.
声をあげているのは、我々の身体である.
人類にとって、これが最後の折り返し点なのだが、だれも戻ろうとしない.
ヒトは「科学の色メガネ」を外して、世界をありのままにみるのがよい.
自然も人生も、そこからはじまる.



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