錆びたナイフ

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2014年10月14日
[本]

「身ぶりと言葉」 アンドレ・ルロワ=グーラン

「身ぶりと言葉」


フランスの人類学者グーランによる、旧石器時代から現代に及ぶ、人類とは何かという長大な論考.
頭蓋骨や石器の図がたくさん出てくる.
「人間の歯、手、足、それに結局は脳も、マンモスの歯やウマの四肢やある種の鳥の脳のような高い完成度には達しなかったのである。 つまり、それで人間はほぼあらゆる可能な行為をなしうる者として残り、ほとんど何でも食べることができ、走り、這うことができるとともに、骨格上ふしぎなほど古風な手という器官を、・・脳によって支配される動作のために、用いることができる。」
三万年前、脳容量の拡大が緩やかになった後に、石器の急激な進歩が現れる.
それをグーランは、脳前頭部の閂(かんぬき)が外れたと称している.
運動と知覚が脳の前頭部で連動して、他の動物にはあり得ない革新が起った.
石を石で砕いて石器を作るという行為を、グーランは詳細に検討して、チンパンジーが石を使って木の実を砕く行動とは全く違うと言う.
こういう道具を作りたい、こうすればこうなる、といった高度な抽象思考と想像力がそこになければ、打製石器は生まれない.

「原始人類においては、手と顔がいわば分離されてきて、一方は道具と身ぶりによって、もう一方は発声によって新しい均り合いを求めている。 図示表象が出現したとき、表現の平衡関係が確立し、手は視覚に係わる言語活動を受けもち、顔は聞きとりに結びついた言語活動を受けもった。 ・・身ぶりは言葉を翻訳し、言葉は図示表現を注解するのである。」
グーランは、身ぶりとは何か言葉とは何か、と解析をしない.
あたかも身体構造として、人類は道具を作り言葉を操り文字を記録するようにできている、とでもいうように、直立二足歩行をする人類の要件から、あっという間にここまでジャンプする.
そのいささか分かり難い文章に関わらず、これらの論証は見事で興味深い.

600頁を越える本書の三分の二は、この後の人類の歴史、農耕による定住/都市の建設/産業革命から現代までをたどっている.
「ホモ・サピエンスの場合、技術はもはや脳細胞の進歩に結びついたものではなく、完全に外化され、いわば技術自体が生命をもっているかにみえる」
人間の外化された力は蒸気機関に変貌し、外化された知識は文字として時空を越えるのだが、グーランは警鐘を鳴らす.
「文明のあらゆる進歩は、マンモスをねらっていた人間と生理的にも知的にも同じ人間によってなされており、せいぜい五十年を数えるわれわれのエレクトロニクス文化がこちらは四万年の時をへた生理構造を支えとしていることである。・・ ほとんど無制限な力をもった文明と、トナカイを殺すことが生き残るという意味であった時代と同じ攻撃性をもったままの文明人とのあいだの矛盾は眼前にある。」
グーランにとって人類という種は、産業革命はるか以前、鉄器の時代あたりまでが「まっとう」で、その後は技術が進みすぎて異常な状態にある、ということらしい.
現代の大衆読物、漫画、ラジオ、テレビは「低劣」で、人々から想像力を奪うとまで言っている.

本書が書かれた1960年代には顕在していなかった大きな技術がある.
ひとつは、世界をデジタル化(数値化)し数学で大量のデータを処理する情報技術で、グーランの「線形」「アナログ発想」では、多層化されたサイバー世界の理解は難しいだろう.
もう一つは再生医療を含めた医療技術で、ヒトはやがて、死ななくなるだろう.
人類の行く末についてグーランが描いた最もアイロニカルなビジョンは、もはや人類は「ホモ =霊長目ヒト科ヒト族」ではなくなる、ということだ.
しかし、マンモスを追って汗を流す石器人が、スポーツジムで汗を流す現代人に「進化」したわけではない.
石器人の赤ん坊をに現代社会で育てればりっぱな現代人になるし、その逆も言える.
今の世界が、あってはならないものに見えるのなら、そのきっかけはまさに、我ら人類が作った石器と洞窟の壁に描いた絵にあるはずである.


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