錆びたナイフ

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2019年3月12日
[本]

「サピエンス全史 上下」 ユヴァル・ノア・ハラリ


「サピエンス全史」


「アフリカでほそぼそと暮らしていたホモ・サピエンスが、食物連鎖の頂点に立ち、文明を築いたのはなぜか」という話である.
作者は「認知革命」「農業革命」「科学革命」という区切りで、人類(狭義のホモ・サピエンス)数十万年の歴史を論じている.
人類の歴史は、現代に近づくほど激変しており、生物学的には20万年前と変わらぬ人類が、それをやってのけた.
著者の発想は縦横無尽、広範で明確でテンポが早く、読み物としてはたいそう面白い.

「一方には、川や木やライオンといった客観的現実が存在し、もう一方には、神や国民や法人といった想像上の現実が存在する」
「認知革命」とはその「想像」が優位に立った世界のことだと著者はいう.
今から3万年前に、その「革命」はホモ・サピエンスに起こった.
洞窟に書かれた壁画や象牙で作った像がその証拠だ.
「私たちとチンパンジーとの真の違いは、多数の個体や家族、集団を結びつける神話という接着剤だ。この接着剤こそが、私たちを万物の支配者に仕立てたのだ」
「我々が当たり前のように信じている国家や国民、企業や法律、さらには人権や平等といった考えまでもが虚構であり、虚構こそが見知らぬ人同士が協力することを可能にしたのだ」
著者のいう「神話」は「集合的無意識」というより単に「民族意識」のことだ.
さらに著者が、想像で成り立つ社会の仕組みを「虚構」と呼ぶ理由は、それが人類本来のものではない、という思いがあるのだろう.

「農業革命」は1万年前、「科学革命」は16世紀半ばに起こった.
著者は「農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ」という.
「人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量をたしかに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。
 では、それは誰の責任だったのか? ・・・犯人は小麦、稲、ジャガイモなどの、一握りの植物種だった。ホモ・サピエンスがそれらを栽培化したのではなく、逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ」
これはR・ドーキンス「利己的な遺伝子」の発想である.
農耕民より狩猟採集民の方が豊かだったという指摘は面白いが、種=DNAから見れば、小麦の増加も人類の増加も大成功ということになる.

「紀元前1000年紀(?)に普遍的な秩序となる可能性を持ったものが三つ登場し、・・・真っ先に登場した普遍的秩序は経済的なもので、貨幣という秩序だった。第二の普遍的秩序は政治的なもので、帝国という秩序だった。第三の普遍的秩序は宗教的で、仏教やキリスト教、イスラム教といった普遍的宗教の秩序だった」
「ヨーロッパ人が特別なのは、探検して征服したいという、無類の飽くなき野心があったからだ。 やろうと思えばできたのかもしれないが、ローマ人はけっしてインドやスカンディナヴィアを征服しようとはしなかったし、ペルシア人はマダガスカルやスペインを、中国人はインドネシアやアフリカをけっして征服しようとはしなかった」
帝国が植民地を征服する力は、人種的な優劣ではなく、主に地政学的な鉱物資源の有無や家畜になる動物の有無、人口が集中する都市の有無に依存する、と論じたのはジャレド・ダイアモンドである.
ハラリは、その力を「考え方」あるいは「発想」の違いだとみている.
大航海時代に大洋を行く船には、商人や兵隊だけではない、ダーウィンのような科学者が乗っていた.
科学という強烈な好奇心に裏打ちされた、帝国主義という発想が、世界を支配したのである.

「科学革命はこれまで、知識の革命ではなかった。何よりも、人類は自らにとって最も重要な疑問の数々の答えを知らないという、無知の革命だった」
この指摘はユニークだ.
なんでも知っている(はずの)神を信じることから、何も知らないと自覚する人間、つまりソクラテスへ後戻りしたのである.
「概して昔の人々は自分たちの時代よりも過去のほうが良かったと思い、将来は今よりも悪くなるか、せいぜい今と同程度だろうと考えていた。経済用語に置き換えるなら、富の総量は減少するとは言わないまでも、限られていると信じていたのだ」
現代の経済の発想は真逆である.
化石燃料が枯渇するという騒ぎもわすれて、人類は次々と新たなエネルギーを手に入れた.
「エコ」というのは、さらなるエネルギーを消費する言い訳である.

アフリカから全世界に拡散した人類は、アメリカやオーストラリアに渡って、多くの固有種を絶滅させた.
人類は環境を破壊するという思いが、著者の心に「原罪」のようにひかっかっている.
さらに、牛/豚/鶏のような家畜は、今や完全に生殖を管理され工場化されて、これほど本来の生き方からかけ離れた生物はないと著者はいう.
そのような家畜は、DNAのたくらみの「成功」にも関わらず、「不幸」だと見ているのだ.
「歴史が人類の利益のために作用しているという証拠がないのは、そのような利益を計測する客観的尺度がないからだ。何が良いかという定義は文化によって異なるし、良さを比べる客観的な物差しもない」
と言っている著者は、いったいどこから「幸/不幸」や「善悪」の基準を持ってきたのか.
「お金や社会的地位、美容整形、壮麗な邸宅、権力の座などはどれも、あなたを幸せにすることはできない。永続する幸福感は、セロトニンやドーパミン、オキシトシンからのみ生じるのだ」
著者の声は、もはや悲鳴に近い.

「男らしさや女らしさを定義する法律や規範、権利、義務の大半は、生物学的な現実ではなく人間の想像を反映している」
人類「本来」の「生物的/物理的現実」の上に「想像」という異常で過剰なものが乗っかっているという思い込みから、この著者はどうしても抜け出せない.
ほんとうは、川や木やライオンといったものの存在の根拠は、「人間」の中にしかない.
「川」とは何かと、考えてみればよい.
「想像的認識 」は人間の存在そのものなのである.
NHKの特集番組に登場したハラリは、何かに追われるようにしゃべりまくる.
私はこの無表情な男が、背後に感じている「不安」のほうに興味がある.
人間は、何に対して言い訳をするのか、なぜ人間の存在に「罪」を感じるのか.
「DNAの成功」がうとましいのは、いったい「誰」なのか.

「文明は人間を幸福にしたのか」「超ホモ・サピエンスの時代へ」という章で、この書は終わっている.
現代は、驚異的なイノベーション(技術革新)と、民主主義の劣化が、同時に起こっている.
そこで、ピケティもセドラチェクもハラリも、最近流行の気鋭社会学者たちは皆、パラノイアに罹患している.
農耕民より狩猟採集民の方が豊かだったというなら、現代人は、望めば今すぐにでも狩猟採集民になれる.
そうすればいいだけの話である.
ホモ・サピエンスは、誰がなんと言おうが、行きつくところまで行くだろう.
この書の著者は、石器人に戻ろうとしているのではなく、現代社会に生きて「人間にあらざる人類」というものを夢想している.


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