錆びたナイフ

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2023年3月16日
[本]

「デカンショ三題」


「Descartes」



昔の学生は「デッカンショ」と呼んでいた、デカルト、カント、ショーペンハウエルの三冊
「方法序説」「啓蒙とは何か」「読書について」
どれも「一般人」向けに書かれた「入門書」で、読みやすい.

○「方法序説」ルネ・デカルト
この書は有名だが、本文は1/3ほどで、残りは解説文.
半ば自伝のような内容で、この時代の若い思想家の人生が面白い.
まるで武者修行のように、世間を放浪して思索を重ねるのである.
私は 「デカルトの骨」を読んで、この男、偏屈で嫌われ者と思っていたが、そうでもないらしい.
言動は素直で謙虚、道徳上はむしろ穏健で保守的.
例の「我思う故に我あり」という文言はこの書にある.

『私は、かつて私の精神のなかに入りこんでいたすべてのものは、夢のなかの幻想とおなじくらい真ならざるものだと仮定しておこう、と決心した』
徹底的に疑うことの先で、デカルトは、
「私は考える、ゆえに私はある」というこの事実は疑い得ない、そこから、世界のありさまを組み立て直そうとする.
私には一種の「判断保留(エポケー)」に思える、人間の認識の限界、不可知論の手前で踏みとどまったのである.
「自分が蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか」というような(荘子の)話は、デカルトには我慢ならない.
「神がお造りになったこの世界が、そのように曖昧なものであるはずがない」
私は思う、夢はほんとうに「真ならざるもの」なのか.
「人間には知り得ない」という「問いと答え」は、実はもっと大事なことではないのか.

『私とは一つの実体であって、その本質つまり本性はただ考えることのみであり、存在するためには、いかなる場所も要らないし、いかなる物体的なものにも依存していない』
「私」という「実体」の「本性」の「存在」は「いかなる物体的なものにも依存していない」と言っている.
ウソだろ.
例えば「食べる」「眠る」といった身体の行為は、「私」という「実体」の「本性」の「存在」そのものではないのか.
デカルトは一体何を言っているのか.
「疑う」という思考のなかに、究極の存在論的意義があるとみているのだ.
つまり、疑いを持つこと、考え続けること、可能性を模索するということ、が、「存在=実存」の核心であるということだ.

『われわれがきわめて明晰かつ判明に理解することはすべて真である』
「明晰かつ判明」とはどういうことか.
そもそも「真・偽」とは何のことか.
数学者でもあるデカルトは、たとえば「三段論法」のような、明快な真偽判断を思い描いたのだろうか.
「石に腰を、墓であったか」
この山頭火の句は、人間の認識の妙を見事に表現している.
今そこにある「石」が「墓」であることは、数学でも物理学でも証明できない.
「墓のように見える」という事が、人間の認識の、従って真偽の、基本なのだ.
人間の認識は、単なる情報の受信ではなく、目的を持っている.
「ように見える」ということが、すなわち「明晰かつ判明に理解すること」であると、デカルトは分かっていただろうか.

『その観念は、私よりも実際により完全なある本性によって私のうちに置かれた、ということだけであった。
 しかも、その本性とは、それについて私が考えうるあらゆる完全性を自分のうちに持つもの、つまり、一言でいえば神なのである』
自分に「真偽」の判断ができること、同時に判断を間違えるということがありえる、ということのバックボーンに、彼は「神」を置いている.
世界を統べる神は、無謬で完全でかつ誠実であること.
これが、デカルトの発想の「底」である.
この「神」は、キリストではない.
それは、自然の根本原理と言っているのに近い.
つまり「科学」と言い換えても同じだ.

この男、哲学者、数学者、天文学者、解剖学者でもあった.
血液が、動脈と静脈という経路で、心臓を中心に全身を循環していることを知っていた.
心臓の役割が血を暖めることだ、という彼の認識は誤りだが、300年前に、人体の機能は物理的に解明できると発想するすごさよ.
神は、人体を物理的な仕組みとして作り出し、まるで電源スイッチを入れるように、ある種の「熱」で生命に点火したのだ、と考えている.
これがデカルト的発想の「頂上」であり、これは、現代科学と等価である.


○「啓蒙とは何か」 イマヌエル・カント
カントがいう「啓蒙」とは、要するに「理性的に生きよ」ということである.
それは、神から人間だけに与えられた能力であり、それを実践することが神の意志であり、同時にそれが「善」である、とカントはみなしている.
教会の説教みたいに「都合が良すぎる」と半畳を入れたくなるが、カントは人間をよく見ている.
『人間にあっては、理性の使用を旨とするところの自然的素質があますところなく開展するのは、類においでであって、個体においでではない』
つまり個々の人間は自らの生存と欲望に汲々としており、とうてい「理性的」に生きていない.
しかし、全体として人間は「理性的」に生きようとしつつある、とカントは考えている.
飢餓も疫病も戦争ものり越え、世界の人口が億単位で増加しているところをみると、あながち的外れではない.

『曾つて未開人の無目的な状態は、我々人類に内在するいっさいの自然的素質の発現を妨げたが、
 しかしかかる未開状態が人類に加えた諸般の害悪は、人類を強要して、けっきょくかかる状態から脱して公民的組織を結成せざるを得なくした』
カントのいう理性的人間とは、子供は含まれないし、怠惰で無責任な大人でもない、はっきりと自らの力で理性を実践できる人間であり、それは公民という形で社会の中に現れる.
犯罪、暴力、戦争といった「害悪」は、いわば理性に目覚めた人間が出くわす必然のことがらであり、これらの「悪」を通してこそ、人間は「善」に到達する、と考えている.
つまり人間は悪い事をするからこそ、それをやめて防ごうとするのだ、という.
それを実現するのが法治社会である.
社会には支配者が必要であり、民衆は支配に従うべきであり、同時に支配者が暴君とならないための立法も必要である、とカントはいう.
さらに、国家も同じく、その権力を越える強制力がなければ「善」は実現できないと考えて、国際的な国家連合を考え出しているところがすごい.

カントは人間の歴史を、旧約聖書から読み解いている.
人間とは何かと問うなら、この大雑把な「憶測」は面白い.
『人間が刺戟の対象を感覚から遠ざけることによって愛好の念をますます切実にし、またいっそう長く保たせるということは、すでに理性が衝動を幾分でも支配しているという意識を証示するものであり‥
 拒むことは、人間を官能的刺戟から観念的刺戟へ、また単なる動物的欲望から次第に愛へ、更にまたこの愛をもって、単なる快適の感情から美的趣味へ、それも最初は人体の美に対してだけであったが、やがて自然の美に対す趣味へ移行せしめる機巧にほかならなかった』
何のことかというと、アダムとイブが、イチジクの葉をまとったことを言っている.
アガンベンが 「裸性」で語ったことに比べれば、このカントは「たんなる真面目なおじさん」である.

カントが「神」という時、それが世界の基礎原理というだけでなく、そうあるべきという道徳や善悪の概念を含んでいた.
カントはデカルトの死から一世紀を経て登場したが、その発想はどうにも息苦しい、と私は思う.
人間の自由はそれを制限することでしか実現できない、といった、社会的な規範を優先しているせいではない.
「自由」とは「なんでもできる」ということではなく、「おのれを縛っている鎖を知れ」ということだ.
全てを疑えと言ったデカルトの方が、はるかに自由だったのではないか.


○「読書について」ショウペンハウエル
この著者はほんとうに哲学者か?
『読書は思索の代用品で、‥‥自らの思索の道から遠ざかるのを防ぐためには、多読を慎むべきである‥』
どうも本気で言っているらしい.
文筆業の当人が、読者に本を読むなと言ってどうするのだろう.
本書の大半は、世の中の、特に出版界の状況を口を極めて非難し、ドイツ国語の荒廃を論難している.
『現在、非良心的な三文文筆家が巷にあふれ、無用な悪書がいよいよ氾濫して悪徳をまき散らしている。云々‥‥』
ハウエル翁のこの本が、その例外であるという根拠は、どこをさがしても、ない.


いまどき「理性的」という言葉は、せいぜい「感情的」の対語で、必ずしも褒め言葉ではない.
デカルトにとってそれは、万人に生まれつき平等に備わっている「良識」であり、希望の光であった.
カントにとってそれは、本能や刹那的欲望ではなく、義務の意識によってなされる行為のことであった.
人間が「理性」と「自由」によって神から独立したという発想は、西欧発想の根幹である.
理性とは「物事を正しく判断する力、また、真と偽、善と悪を識別する能力」だというなら、
この定義から「正しい」「真偽」「善悪」という、道徳に基づく価値基準を取り除けば、なにものこらない.
道徳が神に由来する限り、結局人間は少しも自立していないのである.
カントは、人間の「生きるチカラ」を「理性」と「自由」から得ようとしている.
それは、本当にその中にあるのか.
さらに、「自然」というものを人間を取り巻く環境という意味でなく、人間を含めた神の意志という捉え方をしている.
すると、人智を超えた世界の動きは、どう転ぼうとも「神の意志」ということになる.

カントは「世界の終わり」を三様に思い描いている.
1.神の知慧による道徳的目的の秩序に従った終り
 つまり理性的な人間社会が実現したあかつきの、人間の最終目的の完成で、世界はふたたび自然に戻る.
2.万物の神秘的(超自然的)な終り
 人間にはとうてい理解できない、圧倒的な自然の猛威によるおわり.
3.万物の反自然的な(誤れる)終り
 人間が自己の目的を見失い、理性を失い、堕落したあげくに現れる世界の終末.

私は、これらのどれでもない、という気がする.
デカルトが着目した「理性の開眼」は、やがて、合理性=科学的=正しい=早くて便利で効率的、という「効能」に行き着いた.
Googleが、ネットを通して人間の記憶を全てデジタル化すると決断したとき、だれも想像しなかった、ミソもクソも一緒にした「テクノロジーの楽園」がやってきた.
人間は神から自立したのではない、神を失ったのである.
デカンショの御三方は、人間が人間の主人公であることを疑いもしなかったが、いまや、それが信じられなくなった.




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