錆びたナイフ

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2014年7月7日
[本]

「裸性」 ジョルジョ・アガンベン

「裸性」


エッセイのように、論考の対象は多岐に渡っている.
表題の「裸性」はその一つ.
文章は比較的平易だが、アガンベンの発想には、独特のバネのようなしぶとさがある.

「堕落する以前、アダムとエヴァは、人が着るべきいかなる衣服も身につけてはいなかったが、裸ではなかった。つまり、神の恩寵という衣服に覆われていた・・」
話はここから始まっている.
アガンベンにとって「裸」とは単に「ヌード」ではなく、徹底して聖書に書かれた物語が出発点だ.

楽園の二人が禁断の林檎を食べた結末は単純だ.
自分たちが裸であると知って、恥ずかしくてイチジクの葉で性器を隠した、それだけである.
それが「罪」である、とは一体何のことか.
羞恥を感じる「裸」は、善悪を認識し神をすてて堕落する可能性をもった肉体、として現れるが、
では、林檎を食べる直前まであった肉体は何だったのか.
さらに神の恩寵を除いた本性としての人間、(剥き出しの生)というのはあり得たのか.
アガンベンは執拗ににじり寄る.
「罪は世界に悪をもたらしたのではなく、たんに悪をあばいただけだということを意味している.悪は、あるいは少なくともその効果は、本質的に、衣服の剥奪のうちにある。
・・本性の腐敗は、罪より先に存在していたのでなく、罪によって生みだされたのである。」
神の言いつけに背いたことが罪や堕落なのではなく、背いたところから人間の善と悪が始まった.
「罪を犯す以前、人間は無為と充溢の状況のうちに生きていた。じつのところ、目の開かれとは、魂の目の閉ざされを意味しており、さらには、みずからの充溢と至福の状態を、無力の状態として、すなわち知の欠如の状態として、知覚することを意味している。」
こうしてアガンベンは聖書を越えて、現代に突入する.
ヘルムート・ニュートンのヌード写真を「堕落するまえのエデンの園の裸だ」と喝破し、日本のSM雑誌の写真を例に「じつのところ存在しているのは、ただ裸にすることだけ、衣服と優美さを肉体から剥ぎとる終りのない身ぶり手振りだけである。」と言う.
はたしてアガンベンは、トスカーナ大公自然史博物館の人体解剖蝋人形を引き出す.
この「美しい」女性の人形は、皮膚と何層もの内臓に分解できる.
ラッキョウの皮をむくように、ここに「裸」はないのだと言う.

西欧には、ギリシャ哲学とキリスト教という二つの巨大な伽藍がそびえ立っている.
アガンベンは、現代社会の知見と同列に、ユダヤ/キリスト教の伽藍にこだわり、問い続ける.
びくともしない伽藍がほんの少し軋む、すると、世界が揺れるのだ.
正にヨーロッパ人の爪の先まで侵食し、徹底的に考え尽くされた体系ににじり寄る時、西欧哲学は信じがたい力を発揮するが、
この巨大な伽藍のうっとおしさと存在感は、我々の想像を超える.
「・・裸は、罪のあとの本性の腐敗を、すなわち、生殖をとおして人間性が伝えられていくということを示す、暗号なのである。」

けだし「原罪」などあずかり知らぬ、キリスト教徒でない我が身にとって裸は、
祝祭であると、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)が言う.


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