2023年2月27日
[映画]

世界一の長寿国日本で、その老人を支える費用や労力が、国民全体の大きな負担になっていると判断した政府は、老人を減らす方策をあみだした.
国や市町村が総力をあげて「PLAN75」というプロジェクトを推進する.
75歳以上の老人は、申し込むと10万円もらえて、ある日「そこ」へ行くと「安楽死」させてもらえる.
もちろん強制ではない、スタッフの対応は親切ていねいで、申し込んだあとでもやめられる、という.
一人暮らしのミチ(倍賞千恵子)は78歳.
役所のプロジェクト担当者、ヒロム(磯村勇斗)
電話で申込者をサポートをする瑶子(河合優実)
「そこ」つまり「処理施設」で働くフィリピンの出稼ぎ労働者アリアン(マリア)
「老人は早く死ぬことで国に貢献すべき」
奇しくも1973年の映画「ソイレント・グリーン」の年代設定は、2022年である.
増えすぎた老人問題は絵空事ではない?
現代が、50年前の荒唐無稽なSF映画に近づきつつある、という気さえする.
ミチは仕事を失って、再就職を試みるが、うまくいかない.
電話に出なくなった老人仲間を訪ねると、彼女は孤独死していた.
ヒロムは、長年音信のなかった叔父に再会する.
彼は、この寡黙な一人暮らしの叔父を気にするようになる.
ヒロムの叔父も、ミチも、「PLAN75」に申し込みをする.
瑶子は、ミチの死までの相談相手として電話で話を聞きながら、やがて実際にミチと会って話をするようになる.
自ら死を選ぶ理由は、ふたりとも家族とは疎遠で、一人暮らしで、貧しいから、というようにみえる.
ミチもヒロムの叔父も、元気一杯という顔はしていないが、もう死にたい、という理由はわからない.
映画を観ているわれわれは、なんとなく、孤独で人生に飽いた心を、想像するだけである.
映画は、余計な説明なし、丹念に撮った映像に文句はない.
しかし私は、何かが決定的に欠けていると思う.
ヒロムも瑶子も、次第に「PLAN75」という制度に、どこかわりきれないものを感じるようになる.
この映画は、
社会に役に立たない人間は、早くあの世へ行きましょう、という、人倫にもとる考え方が、社会に公然と広まる怖さを訴えているが、どうもそれだけではない.
現代社会は、そのはるか先にいる、と私は思う.
「国民の負担」になるから「老人を減らす」というのはヘンな話で、国家はもともと「国民の負担」を負うものであって、財政赤字1,000兆円もなんのその.
人間の生存を、社会貢献や効率で判断したら、どうせいつか死ぬニンゲンの人生そのものが、ムダそのものではないか.
そもそも今どき、世界は、この映画のような効率優先のドンヅマリ発想をしない.
働かない家族もない老人もまた、消費する主体なのであって、現代社会はこの消費者で成り立っている.
病気がちで医療費を食い潰す大量の老人たちは、現代資本主義の巨大な顧客なのである.
だから話は逆なのだ.
資本主義とそのしもべである国家は、老人を死なせない.
今や日本の医療・介護費用は年間60兆円.
この費用の負担が大変、なのではなく、これはまさにビジネスチャンスなのである.
安楽死などとんでもない、集中治療室でチューブにつながれていようとも、生きてさえいれば、マネーが動く.
人間はすでに、老いも若きも赤ん坊も、消費し消費される「商品」として、しっかりと社会に組み込まれている.
問題は、巨大な医療費でも、高齢化でも、孤独死でもない.
国民がこのシステムのらち外で、生きることも死ぬこともできないことにある.
ミチが瑶子とボーリングに興じて、珍しく笑顔になるシーンがある.
話を聞いてくれた瑶子に、ミチが感謝している、という展開なのだが、どうにも居心地が悪い.
この人はあと数日で死ぬのだと、瑶子は知っているのだから、
あり得るとしたら、ミチが瑶子を気づかって笑顔でいる、ということだ.
国の生活保護に頼らず、自力で生活したいというミチの思いは実現できず、結局、国家が進める安楽死を選ぶという、この話の展開が、私には納得できない.
「生まれるのは自分の自由ではなかった、だからせめて、死ぬ時は自分で決めたい」
映画の中に出てくる「PLAN75」のテレビCMである.
馬鹿を言うものではない、そもそも、ひとの生死を決めるのはひとではなく、かみさま(天命)である.
いつのまにか、ひとの生死を決めるのは「医療」になってしまった.
だからこの映画は、医療テクノロジーと医療ビジネスに首までつかって「いのちをまっとうする」ということが、サッパリわからなくなった「先進国」の話なのだ.
「処理施設」で働くアリアンは、施設で安楽死した人間の遺品をゴミとして処分している.
同僚にうながされて、その遺品の中の貴重品を、ためらいながらも、手にする.
故国にいる子供の治療のために、金が必要なのだ.
フィリピンはカトリックの国だ、彼女は、自殺するこの国の老人たちを理解できないだろう.
この、異国から来た女のほうが、はるかに健全なのだ、と思う.
映画の終盤、ひとりで施設にやってきたミチの前に、看護師が現れて「薬を飲んでください」という.
隣りのベッドに横たわる老人、ヒロムの叔父と目が合う.
これでは、孤独死と同じではないか・・
私は、この巨大な施設に、なにか秘密があるのではないかと思った.
叔父を施設まで送りとどけたヒロムは、何を思ったのか、施設に戻る.
叔父はすでに亡くなっていた.
すると彼は、あろうことか伯父の遺体を車に乗せて、火葬場へ運ぼうとする.
この施設は、病院でも火葬場でもなく、遺体は、廃棄物として処理されるのか?
彼は、葬式をしなくちゃ、と思ったのだろう.
が、この話はここで終わってしまう.
アリアンが、遺品の中から札束を見つけた話も、そこで終わってしまう.
肝心なところで、話は尻すぼみになる.
この映画の作者は、終盤でチカラつきてしまった、という気がする.
あるいは、このシステムの背後にある、本当の目的を描く勇気はなかった.
社会がどううわべをつくろっても、安楽死は、万策尽きた「絶望」に過ぎないのか.
いや、所詮限界のある医療システムの中で、安楽死は最後の「希望」なのか.
人間が生み出した「究極の医療」として、ごく近い将来、安楽死はシステム化される、と私は予想している.
そして、施設に来た志願者は、最後にこう聞かれる.
「臓器移植に同意されますか?」
ミチは、「PLAN75」をやめる.
彼女は、死を求めるのでも拒むのでもなく、「いのちをまっとうする」道を選んだ.
しかしそれは、この国では、とても困難なことだ.