2023年4月10日
[映画]

ジュラシックシリーズの最新作「ジュラシック・ワールド/新たなる支配者」(2022)を観た.
2時間半におよぶ「大作」で、エンディングロールが10分以上ある.
莫大な手間と費用をかけた映画だとわかる.
前作で現代社会に放たれた恐竜と、人類とが「共存」しているというアメリカが舞台.
1億年隔たっていた生物同士が果たして「共存」できるのか、
草食恐竜は現代の何を食べるのか、食物連鎖はどう変化するのか、恐竜の体内にいるべきウイルスや細菌はどうやって再現したのか.
外来種どころの話ではない、この「共存」そのものが、生物学的にも社会学的にも大きな問題をはらんでいて、それだけで画期的な作品ができると思うのだが‥
映画は、恐竜を利用しようとするワルモノと一般人が右往左往するだけで、なぁんだ‥がっかり.
古生物学者グラント博士(サム・ニール)と、恐竜調教師?のオーウェン(クリス・プラット)という新旧の顔合わせが新味だが、どれもどこかで見たようなシーンばかり.
終盤、恐竜が暴れまくるシーンではあくびが出てきた.
ばっかじゃなかろか.
本当に恐ろしいものに出会ったら、人間は後ろも見ずに全力で逃げる.
恐竜の足元を、あちこち隠れて回るようなことはしない.
思えば、第一作「ジュラシック・パーク」は30年前の作品である.
これは傑作だった.
その続編シリーズの中で、映画として観るに耐えるのは「ジュラシック・パーク III」(2001)だけだろう.
「III」は、少年が恐竜世界で生き延びる話である.
一作目と三作目の特長は、ワルモノがいないこと.
逆にいえば、最新作に続く他の4作は、ワルモノの造形がステロタイプで、恐竜は人を見れば襲いかかる、話がつまらないのだ.
一作目の凄さは、何よりマイケル・クライトンの原作が優れていることだ.
現代に恐竜を蘇らせるのが、大学の研究所でも、マッドサイエンティストでもなく、放し飼いの恐竜パークを作ってお客を呼ぶビジネス、という発想がすごい.
印象的なシーンがたくさんある.
・冒頭、陸揚げされた檻の中に、とてつもなく凶暴な「何か」がいる.
係員たちはそれを「She」(彼女)と呼んでいる.
・制御を失ったパークのジャングルに取り残された車、外は雨.
すると、コップの水が揺れる.
やがて、地響きとともにTレックスが現れる.
・子供たちが隠れたキッチンに、ベロキラプトルが入ってくる.
リノリウムの床に、ラプトルの鉤爪がカツカツと響く.
こういう見事な映像手腕は、制作資金でも高名な役者の採用でもない、映画センスである.
この作品は、子供(アリアナ・リチャーズとジョセフ・マゼロ)の表情がいい.
子供嫌いだったグラントが、次第に子供好きになるという変化も、作者の物語手腕である.
デビュー作の「激突!」から「ジョーズ」「未知との遭遇」まで、スピルバーグの初期作品は、映画センスにあふれている.
「ジュラシック・パーク」は、同時期に制作した「シンドラーのリスト」より、映画として数段優れていると、私は思う.
この作品には、特徴がいくつかある.
・クローン技術でメスだけを生み出して、恐竜の繁殖をコントロールしようとするが、パークに放たれた恐竜たちはやがて、オスを生み出す.
これは実際の生物界にある話で、まさに理屈を超えた自然の力である.
・人間は銃を持っているが、これで恐竜を殺傷するというシーンがまったくない.
圧倒的に恐竜側が強くて、人間は逃げ回るだけ.
これは、スピルバーグの意志だろう、続編でもこのルールは徹底している.
・小悪党が状況を悪化させる.
恐竜の「胚」を盗み出して売り飛ばそうとするのは、しょーもないシステムエンジニア・ネドリー(ウェイン・ナイト)で、スピルバーグは、こういう男の描写がうまい.
パークを停電させて、まんまと「胚」を盗み出したこの男、雨の夜に、たかをくくっていた小さな恐竜ディロフォサウルスに襲われる.
最新作で、悪役社長が最後に持ち出す古い「缶」は、この第一作でネドリーが持ち出した「胚の入った缶」だろう.
この社長もまた、ディロフォサウルスに殺される.
・コントロールを失ったパークの中に取り残された主人公たち、周囲は太古の恐竜たちの世界、こういう状況設定のうまさ.
現代人は、便利になりすぎた科学テクノロジーを謳歌しながら、このままでいいはずはない、何か悪いことが起こらなければいいが、と考えている.
人々は経験から、この社会のシステムが正常に働かなくなった時の恐怖を、じわじわと感じている.
だから、こういうカタストロフ・パニック映画が次々と作られる.
USJにある同名のテーマパークは、システムが破壊されたカオス世界を、安全に体験できるという、摩訶不思議な世界だ.
1993年、まだCGは未成熟で、撮影は、ティラノサウルスの巨大な頭部を遠隔操作で動かす、アニマトロクスと呼ぶ装置を使った.
目の前に実物大の恐竜の顔があるのだから、役者の表情は真に迫っている.
撮影後にコンピューターの中で恐竜を付け加えるのとは、わけが違うのである.
だが、この映画のエンディング、ティラノサウルスとラプトルの戦いは完全CGで、Tレックスの肩に「地上を支配した恐竜」の垂れ幕が落ちるという、あざといシーンで終わる.
かくて、まさにここから、CGによる恐竜が世界を跋扈するようになり、映画はどんどんつまらなくなった.
とうていあり得ないシーンを作り出すという意味で、CGは強力な技術だが、
そもそも映画は、登場人物が死んでも役者が死ぬわけではない、当初からあり得ないものを描いている.
それは要するに人間の「物語」を語っているのだ.
最新のゲーム映像を見ると、今やAIとCGでなんでもできるのがわかる.
あっというまに、観客自らが好きな役者とストーリーを、自分好みで作り出す「新たな映像体験」が登場するだろう.
作者が観客に語ること、観客が一緒になってその話を体験する「映画」という「物語」は、やがて消滅するのではないか.