2022年8月14日
[本]

村上春樹 訳.
1955年のアメリカ、グラース家の七人の子供たち.
長男シーモアは7年前に死亡.
バディーは「大学在籍作家」で、山小屋に一人で住んでいる.
ブーブーは三人の子供の母.
ウォルトとウェイカーは双子で、ウォルトは死亡、ウェイカーはカソリックの司祭.
フラニーは女子大生.
ズーイは売れっ子の俳優.
フラニーとズーイ、この兄と妹が話の中心である.
最初は、フラニーとそのボーイフレンド、レーンとの逢瀬.
見かけはこの時代の理想的なカップル、その会話の妙、微妙な感情の行き違い.
だんだん雲行きがあやしくなる.
フラニーは、レーンの無自覚な凡庸さに我慢がならない.
彼女の、失神するほどのストレスは、何に由来するのか.
自分の気持ちが理解されない、あれもこれも棘のように自分を傷つけ、その自分が他人を傷つけるという、この「若者」の息苦しさは比類がない.
グラース家で、風呂につかりながら、バディーの古い手紙を読んでいるのがズーイ.
その手紙で、この兄弟姉妹たちの絆と葛藤がわかる.
彼らは1927年から1943年まで、代わる代わる「イッツ・ア・ワイズ・チャイルド」というクイズ番組にレギュラー出演していたという.
神童と呼ばれるイヤなガキどもだったろうな、と私は思う.
早く風呂から出ろとやってくるのが母親のベシー.
ベシーは食事もとらないフラニーを心配して、ズーイに何とかしてと相談する.
この母親と息子の対話も、一場の演劇をみているようで見事.
アメリカ人はみな、自分の人生観をもっている.
後半は、ズーイとフラニーの会話
『私はただ、溢れまくっているエゴにうんざりしているだけ。
私自身のエゴに、みんなのエゴに。
どこかに到達したい、何か立派なことを成し遂げたい、興味深い人間になりたい、そんなことを考えている人々に、私は辟易しているの。
そういうのって私にはもう我慢できない。
実に、実に。誰が何を言おうと、そんなのどうでもいいのよ』
フラニーはそう言う.
とうてい「自分探し」の話ではない.
「自己」が、モンスターのように肥大化している.
兄のシーモアとバディーから、東洋哲学の影響を受けたフラニーは「巡礼の道」という本に傾倒している.
「ひたすら祈れ」というその書は、いわば「声」で知識や言語を超越せよ、といっている.
ズーイは「言葉の曲芸飛行士」といわれるほどの饒舌家で、彼の忠告は、鼻もちならない高慢さや衒学とないまぜになり、フラニーの悩みは解決しない.
サリンジャーの「ライ麦畑・・」を昔読んだ.
青春が抱える解放と苦悩を描いて印象的な作品だが、私は正直なところ「アメリカ人であること」の大変さにため息が出た.
「大人になれ」というのは、日本人にとって必ずしも良い意味ではない.
丁々発止の会話、言葉の洪水、自意識の底なし沼、行き場のないパラノイア.
この書でも、洗面台に並んだ商品を延々と描写し、タバコを持った手の動きを逐一描いてみせる.
人間のあらゆるものを語り尽くすべく、吹き荒れる言葉.
S.キングを思い出すのだが、同じところをぐるぐる回っているような気もする.
「自己」を等身大に戻すために、彼らは苦悶しているのだ.
ズーイの最後の言葉
『シーモアの言うところの太ったおばさんじゃない人間なんて、どこにもいやしないんだよ。
君にはそれがわからないのか?その秘密が君にはまだわかっていないのかい?
なあ、よく聞いてくれよ その太ったおばさんというのが実は誰なのか、君にはまだわからないのか?
ああ、なんていうことだ、まったく。
それはキリストその人なんだよ。 まさにキリストその人なんだ。
ああ、まったく』
「太ったおばさん」というのは、フラニーが嫌悪する凡庸さの象徴である.
この書の登場人物は、自分がしていること、自分がしようとしていることに「自覚的」で、状況に流されるとか、なるようになる、といった発想をしない.
ズーイは、渾身の力をこめて、妹を救おうとする.
ズーイが伝えたのは、(この男にして!)「この世界は生きるに値する」ということだ.
戦勝国アメリカが最も輝いていた時代.
人種差別もドラッグも暴力も、社会に顕在化していない時代.
裕福なエリート家族を揺さぶった、人生の機微.
私はなぜか、プルーストの
「失われた時を求めて」を思い出した.
ケルアックの
「オン・ザ・ロード」が世に出たのは、1957年.
サリンジャーもプルーストも、実は終わってしまった話であって、
アメリカの希望も絶望も、ケルアックの側にあると、私は思う.