2022年9月4日
[本]

イランの映画.
村にある小学校に通っているアハマッドは8歳.
教室は男の子ばかり20人ほど.
30年ほど前の作品だが、背景は日本の戦後を思い出す.
決して豊かではないのだが、みんなが同じなので、誰も自分が貧しいとは思っていない.
アハマッドの隣の席のネマツァデは、ノートを忘れて先生に怒られ、今度忘れたら退学だと言われる.
ノートは、同じ教室のいとこが持っていたのだが、大人に問い詰められると、彼らはうまく返事が出来ずに、黙ったり涙ぐんだりする.
先生の教えは厳しい.
知識を学ぶというより、言われたことを守りなさい、という教育である.
子どもたちはみな素人そのままで、魅力がある.
家に帰ったアハマッドは、自分のカバンにノートが2冊入っているのに気づく.
帰りがけネマツァデが転んだ時、彼のノートを持ってきてしまったのだ.
宿題を書くノートが無いと、ネマツァデは退学になる・・
アハマッドは母親に、ノートを返しに行かなくちゃと、か細い声で何度も訴える.
母親は耳をかさずに、次々と用事を言いつける.
あぁ、かわいそう.
大人は子供の言い分を聞いてくれない.
大人には大人の事情があるが、8歳の子どもにも事情がある.
この子どもは、自分のことではない、友だちのことを真剣に心配しているのだ.
アハマッドは、とうとう家を抜け出して、隣り村のネマツァデを探しに出かける.
小学校2年生が、見知らぬ土地で友だちを探す.
そこで出会うイランの大人たちは、不親切ではないが親切でもない.
ドア作りの職人だったという老人は、アハマッドを道案内してくれるが、最近のドアは鉄製になったと愚痴をこぼす.
同じ名前の住人がいたりして、友だちの家はなかなか見つからない.
ある種のロードムービーである.
村はずれを歩いているアハマッドを見つけた祖父は、タバコを買ってこいと言いつける.
タバコは持っているのだが、祖父は、単に言うことを聞かせるために命令したのである.
言うことを聞かなければ殴る、自分はそうして育てられたし、それが「しつけ」であり、それを知らない人間は社会に悪さをする.
彼は、そう信じている.
そういう子どもが成長すれば、やがて大人のウソと身勝手さを見抜き、裏をかくようになるだろう.
そしてそういう人間たちばかりの社会ができる.
作者は、そういう社会を批判しているわけではない.
私がこの映画を見て感じるのは、大人も子どもも、難儀な世界に住んでいるなぁ、ということだ.
母親はアハマッドに、何度も、宿題をしなさいと言う.
どうして宿題をしなくちゃいけないの?と問うたら、母親の答えはせいぜい、先生に怒られるから・・だろう.
世の中に、説明できないことの、何とたくさんあることか.
だから、昔の大人にとって、子どものしつけは問答無用だった.
大人も子どももお互いの事情を斟酌しないということは、あながち悪いことではない.
隣り村へ続くジグザグ道を、アハマッドは何度も往復する.
そのけなげさに、観客は、誰か助けてあげて、と思う.
イスラム教は、困った者を助けるなとも、不誠実であれとも決していわないだろう.
しかし神は、いまここで起こっていることを、黙って見ているだけだ.
この子どもの思いを理解してくれる大人が一人だけいるとか、あるいは隣り村の子どもたちが家探しを手伝ってくれるとか・・
そんな「ありがちな展開」も無くて、アハマッドはたったひとりで奮闘する.
ひとは、じぶんだけの、か細い道をたどらねばならない.
夜になっても、友だちの家は見つからない.
決して無体な映画、というわけではない、混み入った路地と石段の多いこの村を淡々と巡って、そこに住む人々の生活はどこかなつかしい.
で結局、翌日の学校でネマツァデに出会ったアハマッドは、そっとノートを渡して、
君の分もやっておいたからね・・
先生の宿題チェックも無事通過.
ああよかった.
アハマッドは、問題を乗り越える知恵をひとつ、身につけたのである.
その知恵は、ある種の処世法だ.
トリュフォーの「大人は判ってくれない」(1959)は、13歳の少年の話だった.
アハマッドの世界は、その社会とつりあっていて、この子が、アントワーヌ・ドワネルになることはないだろう.