錆びたナイフ

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2026年2月12日
[本]

「ビーグル号航海記 上下」 ダーウィン


「Myth of Man」



むかしこの著者の「種の起源」を読んだが、ちっとも面白くなかった.
この「航海記」は、面白い.
1831年から5年間、世界を一周した見聞録であり、自然に関する卓越した研究報告であると同時に、稀有の冒険記である.

マゼランが世界を一周してから3世紀、大航海時代を経て、ヨーロッパは、世界の大陸と島々に関する多くの知識を持っていた.
そしてキャプテン・クックの時代から1世紀、「遠距離航海は驚くほど簡単になった」とダーウィンは言う.
ビーグル号は、測量調査を目的とした英国の帆船だが、大砲も積んでいたし乗員は武器も持っていた.
フィッツロイ船長は軍人だが、兵士が乗船していたわけではない.
船長も著者も、英国紳士として世界を旅しているかのようだ.
どんな奥地にもキリスト教の教会があるというのに驚く.
だから、必ずしも人跡未踏地の探検というわけではない.
すでにこの時代、英国は世界中に拠点を持っていたということだ.
実際、5年間の旅を続けるということは、それだけの資金力と、現地での物資調達システムが完備していなければならない.
大英帝国の支配圏拡張とキリスト教の布教とが、強大な武力と資金力によってなされたのである.
ダーウィンはそれに科学の探究徒として便乗した.

ビーグル号は、単に各地の港に立ち寄るだけでなく、川を遡って大陸の奥地を調査した.
なおかつダーウィンは、馬に乗り、人夫やガイドを雇って、数週間に及ぶ内陸探索をするのである.
奥地に住む地主への紹介状を頼りにするだけでなく、野宿もいとわなかった.
我々が思い起こすダーウィンの風貌は、髭もじゃの老科学者だが、この書のダーウィンは22歳の冒険家である.

南米大陸や太平洋の島々、その地形・地質・気候・生物・人物などについて、著者の見識は驚くほど的確で、200年前の書とは思えない.
この視点は、現代でも十分に通用するだろう.
それは単に生物学や地質学や気象学への理解の深さではなく、著者が心底、科学的な思考を備えた人物だということだ.
山に登って、貝殻を含む地層に出合えば、そこは昔海の底だったと考える.
今はない貝殻なら、それは太古に起こったことだと推定する.
大地は隆起と沈下を繰り返している.
彼は当然のようにそう考えていた.
『たとえばアメリカネズミの仲間では大西洋がわの沿岸で13種、太平洋がわで5種を捕えたけれども、同一種は一つもなかった。・・
 しかしアンデスの東と西で同一種が見あたらぬ事実は、アンデスの地質の歴史と完全に一致する。
 この山脈は、現生する動物の種類があらわれたときにもう、大きな壁としてたちはだかっていたからだ。』
今でこそ当然なこの発想は、「神が山と生き物をそのように創られた、それでいいではないか」とする当時の人々からすれば、きわめて冒涜的なのである.
ダーウィンは敬虔なキリスト教徒であると同時に、どのようにしてこうなったかを、知りたいのだ.

この書の白眉である、ガラパゴス諸島の生物やキーリング島の珊瑚礁形成論など、実はあまり面白くなかった.
南アメリカの地に、16世紀になってやってきたスペイン、ポルトガル、オランダ、英国などが、現地人を「野蛮人」として教化すると同時に、反抗するものたちを軍事力で圧殺した.
そのインディオたちの歴史を、ダーウィンはよく見ている.
今も、現地人を牛馬のように酷使する西欧人の地主や鉱山主には、厳しい見方をしている.
『しかもこのような(奴隷売買)行為が、隣人をわが身のように愛すると自称し、神を信じ、神のご意思が地上にあまねく実現するよう祈っている人びとのあいだでおこなわれ、しかも弁護されているのだ!
 わたしと同じイギリス人とわがアメリカの末裔たちとが、高らかに自由を叫びつつも、今も昔もここまで罪深かったかと思うと、わたしの血は煮えたぎり、心がふるえる。』

インディオたちの生活はピンキリだが、中でも南アメリカ南端フエゴ島の住民のに関する記述は、同情と憐憫と侮蔑と希望が、ないまぜになっている.
私はこれこそが、この書の底流をなしている著者の真髄だと思う.
『目についたものはなんでもほしがり、片っぱしから盗みを働いた。』
『この不幸な民は成長しきれずにひねていた。
 醜い顔は白い塗料で塗りたくられ、膚は汚れて脂ぎっていた。
 髪は乱れ放題だし、声もしわがれ、身ぶりが荒あらしかった。
 こういう人びとを眺めると、かれらが同じこの世にすむ同類というか、仲間だとは信じられなくなる。
 下等な生物が味わう楽しみとはどんなものか、世間でよく話題にのぼるが、かれら未開人たちについても、同じ疑問にどれくらいもっともらしい答えが返せるだろうか。
 夜になると、五、六人のフエゴ島民がやってきた。
 この荒れ模様にもかかわらず、そろって丸裸で、風雨から身を守る発想すらなく、濡れた地面に動物のように丸まって眠るのだ。』
『人が住めるところは、海岸の砂地しかない。
 人びとは食べものを探して、絶えまなく住みかを変えなければならない。
 海岸の崖もあまりに険しいので、みすぼらしいカヌーで移動するしか方法がない。
 家庭をもつという感覚は、かれらにわかりようもない。
 ましてや、家族の情は知るべくもない。なぜといって、夫と妻の関係は、狂暴な主人とこき使われる奴隷のそれだからだ。』
『かれら未開人を見ていると、この人びとがどこからきたのだろうか、と自問したくなる。
 かれら一族に北の豊かな土地を捨てさせ、アメリカの背骨といえるコルディエラの大山脈を南下させ、チリやペルーやブラジルの部族が使っていないカヌーを発明、建造させ、さらに地球の行きどまり一歩手前にある居住困難な土地の一つに入植させた原因は、いったいなんなのか。
 かれらはそれがどのような幸福であるかは知らないが、生きていく価値を十分に体感させるだけの喜びを享受していると考えざるを得ないではないか。
 自然は、習慣を万能のものとし、その力を遺伝させることによって、この悲惨な土地の気候と産物とにフエゴ族を慣らしてしまったのだ。』

未開人は「赤い布だとか南京玉」には興味を示すが、ムスケット銃や巨大な帆船といった文明の産物にはまったく興味を示さない.
それがなんであるか、わかっていないのだ.
もう少し工夫したら、もっとよく考えたら、今よりはるかに暮らしやすくなるのに・・
ダーウィンは歯噛みする思いで彼らを見ている.

ダーウィンが見るフエゴ島民は、彼が記述する鳥や獣とは違う.
その後に訪れた、タヒチやニュージーランド、オーストラリアといった土地でも、まるで文化人類学者のような観察眼を発揮する.
科学者の目というより、英国紳士としての道徳観が、その社会への価値基準になっている.
つまり、人間は動物とは違ってこうあるべき、という宗教観を、ダーウィンは振り払うことができない.
ダーウィンは、未開人に文明を与えたいと思っている.
そのためには、
『たとえ一片の布切れでも一人に与えられると、小さくちぎって全員に分配されるので、だれかが他人よりも裕福になれないようになっている。』
『統制がなく完全な意味で共和的になかよく暮らしている部族は・・はるかに劣る文明段階にしか到達しない 』
文明化するには、権力構造と貧富の差が必要だというのである.
ルソーのいう「野生人」ではダメなのである.
この発想はどこから来たのだろう.

私が読んだ「 ピダハン」は、アマゾンに暮らすインディオの話だが、その著者エヴェレットは、あろうことかピダハンに感化されてしまう.
鳥のクチバシが島によって違うなどと言えば、ピダハンはわらうだろう.



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