錆びたナイフ

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2015年10月11日
[本]

「一遍上人語録」 一遍智真

「一遍上人語録」


ひたすら「南無阿弥陀」ととなえよ.
「衣裳を求(もとめ)かざるは畜生道の業(ごう)なり。食物をむさぼりもとむるは餓鬼道の業なり。住所をかまふるは地獄道の業なり。」
13世紀、家を捨て家族を捨て、踊り念仏で全国を行脚した捨聖(すてひじり)、一遍.
衣食住を捨てるとは? 食べなければ人間は死ぬぞ.
食べ物が得られなければ、空腹に耐え、更にその先は飢えて死ぬだけ、と覚悟する.
「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」
この世は苦しいことばかりなのだから、早く死んで極楽浄土へ行こう.
しかし自ら死を選ぶのでないなら、一体何を糧に生きるのだろう.
子供が可愛いとか、食べ物が美味しいとか、この世に生きる喜びは寸毫もない、というのだろうか.
「およそ一念無上の名号にあひぬる上は、明日までも生て要事なし。すなわちとく死なんこそ本意なれ。」
病気になったり怪我をした時に、しめたこれで死ねると思って、治療もしないのだろうか.
いや、一遍はこう答えるだろう.
治療は、してもしなくてもいい、あれかこれかと選べる事柄に、大事なものはない.

この書は、くりかえし、念仏を唱えよ、と書いてある.
どちらの教義が良いかなどという問いには答えないし、借金で困っているとか、嫁姑の仲が悪いとか、日常生活の中でどうしたらいいのか、というような問いも答えもない.
「只今の念仏の外に臨終の念仏なし、臨終即平生(へいぜい)なり。」
一遍は、広範な仏教の教義のなかから、念仏がその核心であると説いている.
日常の喜怒哀楽を言っているのではなく、誰にでも訪れる「臨終」のことを言っているのだ.
死ぬ間際のことを、針の先のようにして対峙している.
そして、それは年老いて病苦の果てにやってくるというのでなく、常に今が臨終の時だと考えている.
死に臨んで、南無阿弥陀と唱えれば、死からも生からも免かれる、のではない、元々生も死も無い、と言う.
「ここに弥陀の本願他力の名号に帰しぬれば、生死なき本分に帰るなり。」
一遍は、日常の世界観を根底から変えようとしている.

「分別の念想おこりしより生死は有なり。されば「心は第一の怨(あた)なり。人を縛して閻羅(えんら)の所に至らしむ」」
分別があるとか、心から念仏を唱える、というのはダメだと言う.
「念仏の下地を造る事なかれ。惣じて、行ずる風情も往生せず、声の風情も往生せず、身の振舞も往生せず、心の持様も往生せず。南無阿弥陀仏が往生するなり。全く風情無也。」
念仏は、意味ではなく、言葉でもなく、声なのだ.
一遍は、近代デカルトの「我思う(コギト)」という発想を一切拒否して、声で、世界の実存に到達しようとしている.
「善悪の境界、皆浄土なり。外に求むべからず、厭うべからず。よろづ生としいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。」
その念仏にたどり着くには、ヒトの心の執着と、世界の意味を捨てねばならない.
信不信、浄不浄、有罪無罪によらず、念仏を唱えればすべての衆生が極楽に行けると阿弥陀仏が保証したので、もはや往生は問題ではなく、念仏が問題なのだ.

ヒトは、年をへると、モンスター化する.
奇怪な老木のように、妄念に凝り固まって、身動きならぬ.
生も死もその中にある.
念仏でおのれの世界観をリセットせよと迫るこの書は、老人のためにある.


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