2025年11月2日
[本]

旅の僧侶が三浦半島の海辺で茶屋に立ち寄り、店の婆さんから地元の話を聞く.
江戸時代ではない、明治の話である.
嘉吉と呼ばれる男が、酒樽を船で運ぶ途中、乗り合わせた漁師と博打をしてその酒を飲んでしまう.
なんだか落語みたいな話だが、話の最後に、明神様の使いだという女が現れる.
その女にちょっかいを出した嘉吉は、「ばけもの!」と叫んで気が狂ってしまう.
『根が悪徒ではござりませぬ、取締りのない、唯ぼうと、一夜酒が沸いたような奴殿じゃ。
薄(すすき)も、蘆(あし)も、女郎花(おみなえし)も、見境はござりませぬ。
髪が長けりゃ女じゃ、と合点して、さかりのついた犬同然、珠を頂いた御恩なぞも、新屋の姉えに、藪の前で、牡丹餅(ぼたもち)半分分けてもろうた了簡じゃで、のう、
食物も下されば、お情も下さりょうぐらいに思うて、こびりついたでござります。』
これが婆さんの語り口.
ものごとを次々と放り出すようなこの口調、まるで「講談」を聴いているようだ.
漢字とふりがなと当て字の洪水.
文語のようでこれは口語か?、なにしろぽろぽろ「主語」が欠けている.
それに、百年昔の「例え」のジャンプ力はすさまじく、なにをいっているのかよくわからない.
にもかかわらず、絢爛たるイメージの奔流に圧倒される.
この文体、池澤夏樹の「
日本語のために」に掲載すべきだと思う.
『此処は何処の細道じゃ
秋谷邸(あきややしき)の細道じゃ
少し通して下さんせ
誰方(どなた)が見えても通しません』
手毬唄に導かれるように、僧侶は、茶店から一山越した秋谷屋敷を訪れる.
この屋敷には因縁があり、村人は魑魅魍魎が出ると信じている.
屋敷に一人で逗留している若者がいる.
若者は僧侶に、畳がもちあがったり行灯が飛びまわったりする奇異を語る.
「それは私も御同然です。人の住むのが気に入らないので荒れるのだろうと思いますが。
そこなんです、貴僧。逆いさえしませんければ、畳も行燈も何事もないのですもの。
戸障子に不意に火が附いて其処いらめらめら燃えあがる事がありましても、慌てて消す処は破れ、水を掛けた処は濡れますが、それなりの処は、後で見ますと濡れた様子もないのですから。』
この若者は、手毬唄をもとめて、この屋敷にたどりついた.
「夢とも、現とも、幻とも…目に見えるようで、口にはいえぬ----そして、優しい、懐しい、あわれな、情のある、
愛の籠った、ふっくりした、しかも、清く、涼しく、悚然とする、胸を掻拐るような、あの、恍惚となるような、
まぁ例えて言えば、芳しい清らかな乳を含みながら、生れない前に腹の中で、美しい母の胸を見るような心持の----唄なんですが、
その文句を忘れたので、命にかけて、憧憬れて、それを聞きたいと思いますんです。」
旅僧の訪問をきっかけに、この屋敷で、村人を巻き込んだ化け物騒ぎがはじまる.
著者の描写力はずば抜けていて、まるで映像を観ているようである.
やがて僧侶の前に、魍魎の巨魁が現れる.
『かくてもなお、我らがこの宇宙の間に罷在るを怪まるるか。
うむ、疑いにみはられたな。みひらいたその瞳も、直ちに瞬く。
凡そ天下に、夜を一目も寝ぬはあっても、瞬をせぬ人間は決してあるまい。
悪左衛門をはじめ夥間一統、即ちその人間の瞬く間を世界とする----瞬くという一秒時には、日輪の光によって、御身らが顔容、衣服の一切、睫毛までも写し取らせて、御身らその生命の終る後、幾百年にも活けるが如く伝えらるる長き時間のあるを知るか。』
一瞬が永遠であり、そこに住むものもあるのだ、といっている、らしい.
『「ござらっしゃい!」
破鐘の如きその大音、どっと響いた。
目くるめいて魂遠くなるほどに、大魔の形体、片隅の暗がりへ吸い込まれたようにすッと退いた、が遥かに小さく、凡そ蛍の火ばかりになって、しかもその衣の色も、袴の色も、顔の色も、頭の毛の総髪も、鮮麗になお目に映る。
「御免遊ばせ。」
向うから襖一枚、颯と蒼く色が変ると、雨浸の鬼の絵の輪郭を、乱れたままの輪に残して、ほんのり桃色がその上に浮いて出た。』
ラスボスの登場である.
たおやかな女性(にょしょう)と思いきや.
『僧は前に彳(たたず)んだのを差覗くように一目見て、
「わッ、」
とばかりに平伏した。
実(げ)にこそその顔(かんばせ)は、爛々たる、銀の眼一双び、眦(まなじり)に紫の隈暗く、頬骨のこけた。頤(おとがい)蒼味がかり、浅葱にくぼんだ唇裂けて、鉄漿(かね)着けた口、柘榴の舌、耳の根には針の如き鋭き牙を噛んでいたのである。』
この女、「白鬼の面」をつけていた、というのが種明かし.
この描写力はほとんど映画だ.
著者が描くこの世界は、若者がみる夢と同列で、妖怪たちは、彼の思いの周囲をめぐっているだけなのだ.
現実世界で大騒ぎをする村人たちが、戯画のようにみえる.
強烈な「母を恋う物語」が産んだ心の迷宮.
自分は、なぜこの世にうまれたのか.