2023年10月22日
[本]

11年前に読んだ時と同じくよくわからない、が、とんでもなくおもしろい.
「人間と動物」というテーマはすなわち「人間とは何か」を問うことであり、つまり本書の中では「人間が動物化」し「動物が人間化」する.
さかんに「歴史以後(ポストヒストリア)」という言葉がでてくる.
いったい何のことか?
『歴史以後とは、まさに、ホモ・サピエンス種という動物が人間になるという忍耐強い労働と否定の過程を経て、それがついに完結を迎える暁のことである。』
つまり「人間とは、人間になろうとするものである」というなら、「やったぁ!、人間になった!」という状態を想定している.
それは同時に「最後の審判」が完了したあとの世界、でもあるらしい.
天国に席を得たものは「真人間」であり、地獄に落ちたものは人間になれなかった何者か、ということだろうか.
もちろん、天国は完璧で永遠普遍であるから、そこに「歴史」はない.
地獄は、過去の悪行を責められるところだから、そこは「歴史」そのものである.
と、私は愚考した.
砂漠から掘り出した「石」を「恐竜」「の」「骨だ」というのは、人間だけである.
「歴史」とは「痕跡」でも「記録」でもない、人間が想像した世界解釈のひとつである.
だから、人間がいなくなれば、あるいは人間が人間でなくなれば、歴史も消える・・
『本質上、放心して、完全にみずからの抑止を解除するものにとらわれているがゆえに、動物は、この抑止解除するものに対して、真の意味で、行為したり、行動したりすることはできず、ただ振舞うことができるだけである。・・・
動物にとって、存在者は、開かれてはいるが、近づくことができるものではない。
いいかえるならば、存在者は、接近不可能性と不透明性のうちに、つまり、いうならば、非関係性のうちに開かれているのだ。・・・
動物は放心のうちで開かれているがゆえに、----石が世界を剥奪されてしまっているのとはちがって----世界を差し引き、世界なしですますことを余儀なくされるからだ。
すなわち、その存在において動物は、窮乏や不足によって規定することができるのである。』
著者によれば「石」とは「動物」とは、かようなものである.
このような解釈は「科学」からは決して出てこない.
このハイデガーの引用文で「存在者」というのは、われわれが普通に言う「物」のことである.
「放心」というのは、ぼーとしているというのでなく、「心ここにあらず」「とりつかれている状態」のことだ.
「動物に日曜日はない」と言ったのは誰だったか.
そして、例の「退屈」の話である.
この本で最も印象に残っているのは、汽車の乗り継ぎで、何もない駅に4時間待たされるという「退屈」の話.
駅前には何もない・・さっきから腕時計ばかりを見ている・・やっと5分経った・・
あはは、私はぼ〜としているのが大好きだが、この気持ちはわかる.
筆者は、この「深い退屈」が人間存在そのものを名指していて、動物の「放心」とこの退屈とは、背中合わせなのだという.
つまり、××をせずにいられない動物と、××をせずにいられる人間が何もすることがない時、というのは、世界の「存在」があらわになった状態なのである.
それは単に人間の可能性が宙吊りになっている、というだけでなく、周囲の「モノ=存在者」も人間に向かって宙吊り、つまり「退屈」しているのである.
『現存在(人間)は、退屈することを習得した動物、自己の放心から自己の放心へと覚醒した動物にすぎない。』
『石は、ヒバリのように嬉々として太陽に向かって舞い上がり活動するわけではない。
だが、それでもヒバリは開かれを見ることはない。』
空高くさえずるヒバリはその「空」を知らない、と言っている.
ヒバリにしてみれば、野原と空と高い雲のなかで舞いあがり、鳴かずにいられないのであって、そこを「空」と呼ぶ必要がないのである.
というより、そのときヒバリは空と一体なのだから、区別できないのだろう.
「ランナーズハイ」になった状態といえば、われわれにもわかるだろうか.
科学は、ヒバリが鳴くのは縄張りを主張するため、という・・なんと貧しい解釈か.
原因結果の連鎖という科学の還元主義を、この書はまったく一慮だにしない.
空に鳴くことでこの「鳥」は、「ヒバリ」になるのである.
同時に、舞いあがった瞬間のヒバリの心を「放心」と呼んでいる.
それは、圧倒的な「震撼」に満たされている.
人間はそれを、「春の喜び」とか「命の歓喜」とみなすが、世界の「存在」を知らないヒバリこそが、世界に生きるのである.
著者が引用するハイデガーには、
開かれ(リヒトウンク、アペルト)、隠匿性、非隠匿性、忘却、無化、露顕、隠蔽、不可知、不知、非暴露性、無為、非知、といったわかりにくい言葉が、洪水のように出てくる.
この世界を、言葉で組み直そうとしているのだ.
アガンベンを通してハイデガーに触れると、人間のありようが裸のままでみえてくる.
すると、世界は奇妙な相貌をみせる.
開かれている、閉じられている・・「世界」とは「関係」の別名である.
そこに「もの」はなく「名前」だけがある.
そして、人間がうみだす「名前だらけの世界」が、双六のあがりのように、世界の最終地というわけではない.
「石は世界を持たない」「動物は世界が貧しい」「人間は世界を形成する」というハイデガーのテーゼは、「人間は素晴らしい」という話ではなく、それはひっきょう、人間の背負った「業(ごう)」なのだ、と私はおもう.
『人間はおのれの動物性を宙づりにし、そうすることで、生が例外領域へと勾留され置き去りにされる=追放されるような、「自由で空虚な」領域を開くのである』
街へ出ると、誰もが足早に歩いている.
私は、人間という「開かれ」「覚醒した」生き物の、すさまじいエネルギーを感じる.
「退屈」が人間の根源的な有り様をあらわしているというなら、まるで退屈であることをおそれているような現代人は、何をなそうとしているのか.
自分が動物であることを、圧殺するのでも、回帰するのでも、保留するのでもない.
『歴史以後の人間は、開かれざるものとしての自己の動物性をもはや温存させてはいず、むしろ技術によってそれを統御し管理しようとする。』
科学技術が、ニンゲンの動物性を宙吊りにし、「生」を追い出した「自由で空虚な領域」を満たす.
それが、ニンゲンの未来である.
ただ「芸術」だけが、それにあらがう.