2023年9月15日
[映画]

英語の題名は「少年とアオサギ」
邦題は、劇中、少年の母が残した本の題名で、人生訓の映画というわけではない.
映画の中身は「ラピュタ」を思わせるような、冒険物語である.
冒頭、病院の火災で、主人公の少年眞人(まひと)は、母を失う.
少年は、自分が母を救えなかったと悔いている.
時代は戦争中の日本で、父は亡妻の妹夏子と再婚して、少年と共に夏子の実家へ引っ越す.
その家は大きな屋敷で、森や池や謎の塔があって、ばあさんたちがたくさんいる.
少年は反撥と憧憬の思いを夏子に抱いている.
冒頭は前作「風立ちぬ」を思わせるのだが、少年の前に不気味なアオサギが現れて、物語は俄然面白くなる.
森へ消えた継母夏子を探そうとする眞人.
夏子は身籠っていた.
「死と誕生」が話の伏線になっている.
この映画のポスターはこれしかない.
宮崎駿がこの不気味なアオサギを思いついたとき、一挙に物語ができたのだと思う.
この鳥には、歯がある.
鳥の中から怪しげな男が現れる.
この男、メフィストフェレスのように、誕生前の世界、「死と再生」の闇へ、少年を連れてゆく.
そこでは、少年の母や、若い娘だった頃のばあさんが現れる.
屋敷のシーンには、鳥や虫の鳴き声風の音といった自然の音はなく、人の声と足音しかない.
これに、久石譲のとつとつとしたピアノ音楽が加わって、ある種のモノローグのようだ.
主人公を子供扱いしない、何もかも心得ていてサッサと指示を出す、こういう宮崎好みの人物がここにも現れる、キリコ.
こういう人間たちの中で、少年は、少し前を見ていて、「千尋」のように、大人たちのウソとマコトを見わける.
物語の終盤で、昔行方不明になった大伯父が、神のような姿で現れる.
この男は、危うい積み木を積むように、世界を統一しようとしている、らしい.
男は少年に、自分のあとを継げという.
実はここから先、話はつまらなくなる.
インコの王が、しびれを切らして大伯父の世界をぶち壊す.
うじゃうじゃ集まってくるインコたちは、えらそうにしていて実は空虚な、マスコミみたいなものだ.
こういった解釈はいかようにもできるが、宮崎駿の映画は、どれも単純な隠喩や暗喩を拒否している.
価値観が多層化していて、一筋縄ではいかない.
勧善懲悪/初志貫徹/自分探ししかないアメリカの映画界で、こういう作品はとうてい作れまい.
この映画は、面白い.
夏子の屋敷でぞろぞろ現れるばあさんたちの中に、湯ばぁばもいるではないか.
可笑しくて大笑いしてしまった.
私は、これが作者宮崎駿の無意識の豊穣さそのものであると思う.
そこは決して静謐でも秩序だってもいない.
暴風雨のように荒れ狂っている.
観客はその世界に引き込まれる.
産屋を覗くことが「禁忌」であるというのは、「日本書紀」の豊玉姫の話だろう.
意図的にそれを取り入れたのではなく、出産が男子のらち外にあるという思いは、作者の無意識が生み出したのだ.
一方でこの映画、観終わって印象が薄い.
「風立ちぬ」と似ている.
「もののけ姫」や「千と千尋」のような、人間社会の矛盾をすべてほうりこんだ、圧倒的な迫力はない.
主人公が男の子のせいだ、という気もする.
黒澤明の晩年の作品のように、作者は、自分の殻の中だけを見つめている.
問題はこの少年ではなく、私は、アオサギだと思う.
「ドン・キホーテ」のさめた主役が、従者のサンチョ・パンサであるように、このアオサギが、人間の生と死を見続けているのだ.
現実社会に戻った眞人は、アオサギのことなどさっさと忘れるだろう.
メフィストフェレスは、実はマヌケで人の良い男でした・・などつまらぬ.
このアオサギは、少年の母への憧憬を食いものにしたのだから、もっと陰険でいじましくて惨めな存在なのだ.
誰のことかといえば、作者自身である.
だから最後に、東京へ旅立つ家族の屋根の上で、ゴアァァゴァァと鳴くべきである.
「くたばれ、にんげんども」