2025年6月2日
[本]

副題は「責任・公共性・資本主義」
著者は広範な知識を駆使して、はたしてこの現代に、まっとうな「自由・平等・民主主義」が成り立つのか、を論じている.
『近代とは、---ウォーラーステインによれば---変化が常態であるような社会である。
定常性から常に(一定限の)逸脱をし続けることが常態であるという逆説をもたらしたのは、言うまでもなく、資本主義である。
変化の常態化は、不可避的に職業構造を流動化する。
職業構造の流動化は、前近代社会の固定した身分制的秩序の維持を困難なものとし、平等化を基本的な社会的トレンドとして帰結することになる。』
そして、
『「変化の常態化」への三つの対処法として「保守主義」、「社会主義」、「ベラリズム」が生まれた』
と著者はいう.
『変化の常態化を押し止めるブレーキとして登場したイデオロギーが、保守主義である。
逆に、この変化を意識的に促進するアクセルの役を果たしたイデオロギーが、社会主義である。
社会主義の眼目は、歴史的過程を加速させることにある。
それは、近代の帰結であるはずの平等な状態を意図的に設計し、実現してしまおうとしたのだ。
そして両者の中間にあるのがリベラリズムである。リベラリズムは、変化を抑制しようとしなかったが、設計主義的な立場から促進しようともしなかった。』
「リベラリズム」とは、「社会の全成員が平等に、基本的な諸自由を、他者の同様な自由を侵害しない限りで、最大限享受することができる」とする原理である.
著者はこの書で、この「リベラリズム」を再検証し、再構築しようとしている.
単なる「社会制度」の話ではない.
自由、主体、責任を問うことは、人間とは何かを問うことだ.
著者がたどり着いたのは、「第三者の審級」という視点だ.
つまり、超越的な他者の審判がなければ、人間は、自分が自分であることも、選択することも、自由であることも、責任も明示できないと、著者は解きあかしている.
現代とは、「第三者の審級の不在」、いわば神を失うことで、何でもできるはずの人間は、何もできなくなった.
このことは、
『今や、誰もが納得する普遍的な価値は存在しない。
理念的にはすべての人が共有しうる、先験的で合理的な根拠にもとづく普遍的な価値を想定することができない。
このとき、社会空間は、それぞれに恣意的に選び出された個別の価値観を奉ずる共同体の群れに、分解するしかない。』
『正義についてのどのような構想も、あからさまなテロや差別を正当化するような構想も含めて究極的には等価だということを合意している。
したがって、どのような構想を選んだとしても、それが他よりも優越していることを論証する必然的な根拠はないのだから、その選択は、偶然だということになる。
言い換えれば、他の構想を選択したかもしれない可能性は、常に排除できないのであって、われわれのあり方は、不可避に偶有的である。』
「誰もが納得する普遍的な価値は存在しない」というのは、古来からそうなのであって、国民国家の価値観を超えるシステムとして、世界は、国際機関や世界経済や科学技術というグローバリズムを生み出してきた.
それはそこそこ機能してきたのだが、今やどうにもならなくなった、ということらしい.
著者は、社会の権力構造の中に「ホモ・サケル」と主権者という二つの形象をみている.
「ホモ・サケル」とは、G.アガンベンが言い出した「罪に問われることなく殺害でき、しかも犠牲として神々に供することのできない存在のこと」である.
『王の政治的身体は、王の身体に内在する「殺害可能な者」(ホモ・サケル)の生を超えた生の過剰性によって基礎づけられているのである。』
『主権者がホモ・サケルとの相関で、まさに主権者たりうるように、人は、己の内なる根源的偶有性との相関において、自由な主体になるのだ。』
なんだかヨクワカラナイ話だが、権力を生み出す構造は、単に武力や経済力ではない、ということだ.
著者は、キリストがホモ・サケルに等しいと見ている
『神が、ホモ・サケルという受動的な身体のままに留まるということは、端的に言えば、神が---超越的な彼岸には---存在しないということである。
神は、内在的な人間---可死的な人間---へと還元されてしまっているのだ。
キリスト教は、その潜在的な合意をすべて引き出してしまえば、結局は、ラディカルな無神論に帰着する。』
この書で興味を引くのは、この「ホモ・サケル」の話と、下記の「資本」論である.
『多く所有するためには、多く使用し、消費しなくてはならない、という逆説を積極的に受け入れたとき、近代的な資本が出現する。
資本家は、積極的に投資する。つまり、彼は、どんどん借金をする。そのことで、逆に、彼はますます多くを得る。
こうして、最も裕福な人は、最も大きな借金をかかえている、という逆説が出現する。
資本主義を特徴づけているのは、極端な所有と極端な消費との間の逆説的な合致である。
これは、伝統的な社会の生活様式からの二重の否定の産物だ。
第一の否定の結果が守銭奴であり、第二の否定の結果が資本(家)である。
・・・
剰余価値の「剰余」とは、物(商品)の特殊性に対する、形式の過剰のことである。
このことは、さまさまな特殊な物ではなく、形式そのものが欲望の対象となったとき、どのような状況が出現するかを考えてみればわかる。
このとき、どの特殊な物も拒否される--- aでもない、bでもない、cでもない…と。
形式は、それら特殊な物 a、b、c..のいずれでもなく、それら以上の何か x として現れることになる。
この「それら以上の」が、「剰余」である。
言い換えれば、それぞれの商品=初の特殊な内容は、欲望の真の対象であるところの形式との関係で、常に不足(欠如)として現れることになる。
資本主義においては、したがって、欲望というものは、本質的に過剰への欲望である。
その「過剰」な分を差し引いた「ちょうどよい欲望」はありえない。「過剰」分を引けば、欲望そのものを失う」とになるだろう。』
この洞察は見事だと思う.
「形式そのものが欲望の対象となったとき」というのは、まさにテレビCMのことだろう.
町に一軒しか店がなく、最低限の商品しかないとしたら、コマーシャルなど不要である.
資本主義の「過剰」とCMとは、切っても切れない、等価なのだ.
欲望が資本主義を生み出すのではなく、資本主義が欲望を生み出す.
さらにいえば、人体がもっている本来の「欲望」など、どうでもいいのだ.
このことが、人間の「自由」の困難を生み出す根源になっている、と私は思う.
著者がいう現代社会における「自由」の困難とは、
『第一に、選択肢が非常にたくさんあるが、どれも不毛で低級でつまらないものに見えてしまう
第二に、倒錯的で過剰な自由がある状況がある。この典型は、原理主義者の世界である。
第三に、自由のない、息のつまるような状況がある。引きこもりで苦しんでいる人の個室を連想するとよい。』
これに対する作者の提言は、いともあっけない.
『深刻な葛藤があったとき、その解決を、国連の「安全保障理事会」に似たような委員会に委ねることにする。
肝心なことは、紛争当事者自身は、委員会の討議に直接には参加しない、ということである。
ここに、委員会と当事者をつなぐ媒介的第三者を導入する。
媒介者は、委員会の指名か、あるいは籤引きで決めればよい』
「くじ引きで決める」というのが眼目なのだ.
つまり意図的な「偶有性」で「神」を生み出すのである.
『第三者の審級による全的な承認(先験的選択)こそが、真の自由を実効的なものとする』
なんのことはない、亀の甲らのヒビ割れで吉兆を判断するのと同じである.
私は、これがナンセンスだとは思わない.
この書の冒頭で、著者は、閉塞感を訴えている.
現代社会は自由を保証しているのに、なぜこうも息苦しいのか.
著者はこの書で、原理的に無条件の自由や責任はありえなことを説きおこしているが、閉塞感の根源にあるのは自由の原理ではなく、タガが外れたような時代の変貌ではないのか.
ヒトの遺伝子は一生の間に1ビットも変わることはないのに、変わらなければダメだと、誰が言うのか.
「変化が常態であるような社会」を、だれが望んだのか.
親の仕事を息子が引き継ぐという、人間が数百年続けてきた営為が、なぜ崩壊するのか.
私は、
リベットの実験 が示すように、人間に自由意志などないし、そもそも自ら望んで生まれたわけではない人間に、責任などない、と思っている.
「自由」は、仏教からみれば単なる「煩悩」であり、「自由と責任」は、キリスト教が信者に課した「アメとムチ」たる空証文である.
「第三者の審級の不在」というのは、無宗教の人間が増えたということではない.
私はいま、全世界レベルの「宗教戦争」が起こっているのだと思う.
「宗教という名の科学」対「宗教という名の人間」戦争.
そして人間はいまだに、千年前の十字軍と変わらぬ戦いをしている.
しかも現代人は、誰と戦っているのか、さっぱりわかっていない.
科学技術の最終形態が、人工知能(AI)である.
そのあとはない.
だからこそ、これは、善と悪の最終戦争、「アーマゲドン」なのである.
私は、汎用人工知能(AGI)が、著者のいう失われた「第三の審級」に成り代わるだろうと思う.
AIの判断を検証する能力も、AIにゆだねる他ないのだから、つまりAIの判断は人間にとって偶有性でしかなくなる.
何しろ誰が何と言おうが、AGI対人間は、大人と幼稚園児ほどの知能差があるのだ.
やがて登場するAGIは、著者がいう(ドストエフスキーの)「大審問官」となり、人間を自由のくびきから解放するだろう.
現代人が肌身離さず拝んでいる「スマホ」は、ネットの神から御神託をたまわる「お札」なのである.
ただし、AIが最終的な権力を得るためには、対となる「ホモ・サケル」が存在しなければならない.
つまり、汚れと清浄を同時に体現するもの・・・
それはウイルスだ、と私は思う.
生物は、ウイルスに感染することで進化をとげてきた.
ウイルスに感染したAIほど、おぞましく、近寄り難い「神」はなかろう.
これが、私の予想する「シンギュラリティ」である.
自由もリベラリズムも吹き飛ばして、そいつ、AGIのパンデミックは、数年以内に、やって来る.
著者・大澤真幸は、人間は、歴史的な変遷を経ても本質的に変わらないと見ている.
しかし、この世紀、ニンゲンそのものが根源的に変貌するだろうと、私は思う.
人間は、生物であることすらあやしいレベルにまで到達するだろう.
その時、目の前にあるのは、自由も責任もない、どこまでもフラットな「管理社会」、「涅槃(ねはん)」である.
そこで、ヒトは、「自由という牢獄」から、解放される.
すなわち「自由」は消滅し、「涅槃」という「牢獄」だけが残る.