錆びたナイフ

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2015年12月25日
[本]

「マインド・タイム」 ベンジャミン・リベット

「マインド・タイム」


最終章の「ルネ・デカルトと著者(リベット)との架空対談」は面白いが、中心の文章は学者の論文のようで、一般の読者にはとても読みにくい.
リベットはアメリカの脳生理学者で、1980年代に、脳の活動と人間の「意志」に関する実験を通して、その時間的な経緯に衝撃的な結論を得た.
「脳がある出来事に「気づく」ためには、その刺激が500ミリ秒以上続く必要がある」
つまり0.5秒しないと物事に気づかないということだが、
「しかし主観的な時間では、あたかも500ミリ秒の遅延が存在しないかのように認識が後戻りする」
さらに、
「自由で自発的な行為の550ミリ秒前に、脳には無意識の起動プロセスが現れ、行為の50〜200ミリ秒前に、遂行しようとする意識が現れる」
すなわち考えるより先に脳は動き始めている、ということだ.
これはとんでもない話で、人間には「自由意志」があるという西欧流発想が吹き飛んでしまった.

ピッチャーの投げる球にバッターが「気づく」のに0.5秒かかったら、球はすでにキャッチャーのミットの中である.
だからバッターはピッチャーを見ながら「無意識に」バットを振るのだが、意識がこの0.5秒の遅延を統合する仕組みが、脳内に見あたらないとリベットは言っている.
それはバッターを、ただボールを見てバットを振る人とみなしている所為である.
科学は、単一の原因があるから単一の結果があると考えている.
そうではなく、ピッチャーとバッターは、一緒に一体として動く.
つまり「二人で踊っている」のであり、つまり世界とは、存在の「舞踏」なのである.
その舞踏の場こそ無意識なのだが、リベットはそれをバッターの目と脳と筋肉に分解して観測するから、分からなくなるのだ.
リベットは最後に「「精神」は「物質」である脳の創発した属性である」として精神場(CMF)という発想を持ち出したが、その「場」はピッチャーとバッターを含んでいるべきであり、するとそれは、無意識に他ならないということになる.

「いかなる種類のアウェアネス(気づき)も現れないうちに、すべての意識を伴う精神現象が実際には無意識に始まっている」
リベットは、そういう実験結果を提示するだけでは満足しなかった.
「物質からどのようにして精神が沸き起こるのか」といったデカルト以来の近代哲学のドツボに足を踏み入れ、自由意志はありえる、という理論を組み立てようとした.
人間の情動を全支配する無意識に対して、意識は、行為の50〜200ミリ秒前にそれを停止すること(も)できる.
それが自由意志の真価であり、意識=理性=神が、無意識=本能=悪に勝利することでもある、とリベットは考えているようだ.
さもなくば、
「情欲を抱いて女を見る者は誰しも、心の中ですでに姦淫を行なったのである」というキリストの言葉はナンセンスである.
人知の及ばぬ無意識が人間の行為を支配しているのなら、誰が人の罪を訴追できるか.
リベットの実験に対する西欧社会の反発と困惑もむべなるかな.

けだし意識あるいは意志または精神とは、海という無意識の表面に現れる波のようなものではないだろうか.
海と波は分離できない.
人間は動物と違って、無意識つまり世界を、一旦棚上げすることができる.
脳の神経シナプスに電位が発生するから人間が世界を認識する、わけではない.
そうした世界を認識するという存在そのものが人間なのである.
だから、脳は「原因」ではなく「結果」なのであり、科学は世界を理解しているのではなく、なぞってみせているだけなのだ.
暮れの大掃除をするのが、無意識の衝動でも妻の圧力でも、そういう行為の「ありさま」を「私」と呼ぶのである.
脳生理学者の他に、それで困るヒトはいない.


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