錆びたナイフ

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2024年10月30日
[本]

「暴力の人類史」 スティーブン・ピンカー


「暴力の人類史」


上下巻で1300ページを超える大著.
認知科学者/進化心理学者である著者は、暴力に満ちた人類の歴史を実証的に検証し、暴力は減ってきた、と主張している.
それだけなら、こんな分厚い本にはならないだろう.
著者は、暴力が減った原因を解明しようとしている.

「人類の暴力史」ではなく「暴力の人類史」とは、妙な題名だと思う.
あたかも「暴力」が人類史そのものだ、といっているようだ.
原題は、
「THE BETTER ANGELS OF OUR NATURE
 WHY VIOLENCE HAS DECLINED 」
「人間本性の善き天使たち、なぜ暴力は減ったのか」
自然そのものに「良い」「悪い」という価値判断はない.
だからこの書は、人間社会の暴力に関する通史であると同時に、著者自身の道徳観の総ざらい、ということになる.

著者のアプローチは多義にわたっているが、暴力に関するテーマを、六つの傾向、五つの内なる悪魔、四つの善なる天使、そして五つの歴史的な力、に分けて、詳細に論じている.
著者は、石器時代が必ずしも平和でなかったことを、化石に残った争いの跡で実証してみせる.
しかし宗教が生まれ国家が誕生したあと、その分析は一筋縄ではいかない.
「文明」も「道徳」も「宗教」も、暴力を防ぐだけでなく、ときに暴力を増幅させる.
総じて著者は、
リヴァイアサンと呼んでいる、合法的な力の行使を独占する国家と司法制度.
それを支える民主主義.
合理的、理性的なものの考え方.
多国間、多民族間の商取引.
さらに「人道主義革命」「権利革命」から、現代の暴力否定の潮流が生まれた、とみている.
それは単に、戦争や大量虐殺が減っただけでなく、少数民族、女性、子ども、同性愛者、そして動物などに向けられた抑圧や差別も減った、と著者は主張する.

一読してこの本は、あたかも「人類の悩み総カタログ」といった感をていする.
オキシトシンとかドーパミンといった脳内物質を通して、暴力的な情動がどのように発動するかまで論じている.
教科書のような総花的なテーマと悪戦苦闘して、論旨は精緻のようにみえるが、実はかなり荒っぽいと私は感じる.
結局ピンカーは迷走しているのではないか.

『制度化された暴力のなかでも最も暗愚なものは生贄、すなわち罪のない人間を拷問にかけて殺し、血に飢えた神への捧げ物とすることである。
 イサクが父アブラハムによって神への生贄にされる旧約聖書の物語は、紀元前一千年紀には人間の生贄は十分ありうることだったことを物語っている。
 神が罪のない人間の拷問と犠牲を受け入れ、それと引き換えに残りの人類に悲惨な運命を負わせないようにする――そう信じるこの分派は、キリスト教と呼ばれる。』
こういう記述に著者の本音が出る.
アブラハムとイサクの話を「暗愚な暴力」とみなすこの著者は、いったいどんな世界を夢見ているのか.

『イスラム世界は、欧米社会がすでに脱却した類の暴力にいまだにふけっているという印象は、イスラム嫌悪やオリエンタリズムのあらわれではなく、数字に裏づけられたものだ。』
しかしここから、著者のイスラム教「嫌悪」が続く.
中東のイスラム諸国が、非民主主義の独裁国家のまま暴力や女性差別を容認している、という.
著者は、家庭内に閉じ込められ、社会に出ることを禁じられたイスラム諸国の女性たちに向かって、あなた方は虐げられ不幸だ不平等だ、と言いたいのだ.
私は、大きなお世話だと思う.
長い年月を生き抜いた社会の、男も女も、著者が思っているよりはるかにしたたかである.
イランの映画を観ると、私はそう感じる.

アメリカの小学校では、ドッチボールが「暴力的」とみなされ、禁止らしい.
ピンカーは「権利革命」の章で、行きすぎた反差別や非暴力化が進めば、人間性そのものを損なうということに気づく.
そこが唯一、この書が単なる知識から思想へ近づく道なのだが、著者の思考はそこで止まってしまう.

人類史600万年、最大の課題である「飢え」と「寒さ」を乗り越えて、今眼前には、世界規模の「大量消費」社会がある.
著者はここへ来て、なんだかわからなくなったのである.
生きるということが・・
人間が「葬式をするサル」だというなら、著者が夢見ているのは「宗教を捨て、葬式をしないサル」になること.
「パンツをはいたサル」だというなら、「神の恩寵を脱ぎ捨てた、裸のサル」になること.
長い歴史の中で、積み上げてきた「暴力」を「合理性」で解体すれば、人間は、限りなく「むき出しの生」に近づく.
ピラミッドや大仏を建造するより、その資材や労力を、田畑の開墾や水害の防止に使った方が、はるかに人々のためになる・・
それはすなわち、歴史の終わった世界(ポスト・ヒストリア)のことである.

本書の帯に「永遠の一冊だ、ビル・ゲイツ」とある.
むべなるかな.
ビルの元に世界のマネーが集まるように、この書は、現代社会の知識の吹き溜まりである.
ビルには未来が見えている.
世界から宗教/国家/人種をとっぱらうこと、差別も区別もないフラットな世界を実現すること.
今、世界は、全力をあげて、そこへ突き進んでいる.
誰もが「暴力的な死を遂げることはない」という世界へ.
しかし人間にたいする「最大の暴力」は「死」にほかならない.
やがて人間は、科学技術をもって「生」も「死」も管理するようになるだろう.
つまりそれが「究極の暴力」ということになる.

世界が激変している.
人間の活動が、結果的に暴力を減らし平等を実現しつつあるようにみえる、その一方で、大規模な自然破壊と環境汚染、社会の格差拡大が進んでいる.
ピンカーの視点から完全に抜け落ちているもの.
ヒトの不慮の死は、半月刀や銃弾や爆弾によるもの、だけではない.
世界の身震いのひとつが、2020年からのコロナ禍・・3年間で680万人が死んだ.
これは事故でも自然災害でもない、人間の社会活動にともなって拡大した「環境汚染」の一端、事実上の「戦争」である.
世界の「暴力」は減ったのではなく、個々の人体に加える「物理的な力」を問題にしないほど、高度化し巨大化したのだと私は思う.



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