錆びたナイフ

back index next

2024年5月18日
[本]

「チベットの死者の書」


「チベットの死者の書」


ここで書かれた説話に最初に出会ったのは、中沢新一の「チベットのモーツァルト」だ.
死者の耳元で、僧侶が奇声を発して経文を唱える、というくだりを思い出した.

『外に吐く息が途絶えてしまって生命の風が叡知の中枢脈管に帰入すると、心は無用の働きを離れた光明としてひときわ輝く。
 その後に生命の風が中枢脈管から逆流して、右・左の脈管に流入すると、バルドゥの現出が一瞬のうちに起こる。』
『バルドゥ(中有)とは、死んだ後で次の生に生まれ変わって輪廻転生を続けるまでの間にある、最長で四十九日間にわたる、死と生の中間時期である。』
この書は、
『死者に対して迷いの世界に輪廻しないように、「正しい道はこっちなのだ」と正しい解脱の方向を指示する、お授けのための経典である。』という.
この世からあの世へ行く途中で、「正しい道」や「正しい解脱」を選ばなければ「悲惨なこと」になる.

『ああ、善い人よ、汝の身体と心とが離ればなれになるとき、存在本来の姿の純粋な現出があるであろう。
 この現出は微妙であり、色彩と光に満ちている。
 その本性は幻惑させ、汝をおののかせるものであり、初夏の野に陽炎が立ち昇るようにゆらゆらと揺れ動く。
 これを恐れてはならない。おののいてはならない。おびえてはなない。
 これこそ汝自身の存在本来の姿そのものの現われであると覚るべきである。』
『光の中から、存在本来の姿そのものが起こす轟音が大きな雷音となり、千の雷が一斉に鳴り轟くばかりにごろごろと響きわたるであろう。』
『その時に輪廻の進行が反転して、ありとあらゆる幻影が光明と身体を持った姿で現われるであろう。
 虚空すべてが紺青色の光となって現われてくるであろう。
 この時に、仏の世界から、尊い御方である(毘盧遮那) 如来が白色の身体をして獅子の背に坐し、手には八幡の輪をかざして、女尊(虚空界自在母)と接吻した姿で汝自身の方へ向かって現われてくるであろう。』

死ぬと「仏」が現れる.
バルドゥ状態にある死者の前には、毎日異なった神々が現れる.
これら神々の描写は圧倒的である.
十四日目には、
『ああ、善い人よ、北方からは、狼の頭をした青色のヴァーユデーヴィーが、手にのぼり幡をたなびかせ、野羊の頭をした赤色のナーリーが手には棒杭を持ち、猪の頭をした黒色のヴァーラーヒーが手には牙のついた縄索を持ち、鳥の頭をした赤色のヴァジュラーが手には幼児の死体を持ち、象の頭をした暗緑色のマハーハスティーが手には大きな遺骸をかかえて体内の血を飲み、蛇の頭をした青色のヴァルナデーヴィーが手には蛇の縄索を持って現われるであろう。』
我々が寺院で目にする邪鬼や大王像たちより、はるかに恐ろしい.

死ぬと、まるでリビドーの断末魔のように、人間の精神に激しい反応が起こる.
おのれの「生」から、おぞましい神々が現れる.
幻影であるそれらを怖れず、信頼して帰依すれば、死者は悟りを開き、仏の世界に成仏することができるという.
それがゴールである.
しかし、われら凡夫は迷う.

「真の道」は目を開けられないほど眩く、一方「迷いの道」はほのかな明かりと静寂に包まれている、という.
『もろもろの天上界の存在の、眩惑させることのないほどに微弱な白色の薄明りの方に喜びを抱いてはならない。
 こちらに執着してはならない。貪り求めてはならない。
 これに執着するときには、もろもろの天上界の存在の境涯に辿りついて、その後は地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天の六道に輪廻することになるであろう。
 この薄明りは解脱の道を妨げる邪魔ものであるので、これに眼を向けて見てはならない。
 紺青の眩惑させるばかりの色彩の光明の方に敬慕の気持ちを寄せべきである。
 仏の方に強く求め願う気持ちを向けるべきである。』
これは、何のことをいっているのだろう.
死とは、静かで儚(はかな)いものではなく、混乱と恐怖と畏怖の先にあるのか.

解脱する、というのは何か.
『明らかであって空であり、不可分であり、光明の大きな集積の中に住している、この汝自身の明知には、生もなく死もない。
 これこそ不変の光明の仏(阿弥陀仏)にほかならない。』
バルドゥを通して、そこを目指せ、という.
死後に現出する神々は、何重にも編まれた巨大なセーフティネットである.
それでも成仏できずにバルドゥ状態に居残っているのは、煩悩と執着に首まで浸かったおろかな人間ということになる.

この書が対象にする「死」は、病気とか老衰の果てにといった、ゆっくりとした移り変わりを想定している.
「四十九日」は、時計の針が示す時間(つまり時刻)ではないのだろう.
生物の「時間」とは、生きて活動する中でその都度生まれるものなのだと、私は考える.
だから、事故で即死の一瞬ですら、当人にとっては「四十九日」、ということがあり得る.

この書を読むと、死とは、命というロウソクの炎が次第に細くなってフッと消える、のではなく、恒星が燃え尽きて大爆発を起こすようなものだ.
あるいは、「古事記」の神々のように、死体からあまたの神々が生まれ、死とは、再生と豊穣そのものだということができる.

この本は、死んだらどうするかという指南書なのだが、何遍読んでも、どうすればよいのかよくわからない.
入れ替わり立ち替わり、たくさんの神と鬼が現れるせいだろうか.
『ああ、善い人よ、これらの寂静尊と忿怒尊のうちで、身体の巨大なものは大空と同じ大きさである。
 中程度のものはスメール山(須弥山)ほどの大きさである。
 小さいものでも我々自身の身体を十八も積み重ねたほどの大きさであるが、これらを恐れてはならない。
 現象の世界のすべてのものが光明と仏の身体をもって現われている。
 すべての幻影が光明と仏の身体をもって現われている。
 これを汝自身の意識のみずからの輝きであると覚るべきである。
 みずからの輝きがみずからの光明や身体と一体に溶け入った時に、汝は仏となることができるのである。』

仏教の修行を積んでいない人々にとって、バルドゥの期間は苦しい、何もかもおそろしい、逃げ出したい・・・
最後に「胎(たい)の入口を閉ざす五つの方法」というのがこと細かに伝授される.
「胎に入る」というのは、(人間とは限らない)新たな身体を得ること、ここから輪廻に還ることである.
要するに精子と卵子の合体のことだろう.
この書の作者は、どうしても、それがイヤなのだ.
この書は、生命が息絶える時の、すさまじいエネルギーを描写していながら、なんとかしてその先へ行こうとしている.
その方法そのものを煎じつめれば、執着を捨てよ、無我となれ、ということである.
さすれば、六動の境涯への再生と誕生を防ぐことができる.
地獄道や餓鬼道はイヤだが、人間や天人に生まれ変わるのさえもイヤだ、というのはなぜだろう.
どの道も苦しみがついてまわる.
天人ですら天人五衰(てんにんごすい)と呼ばれる苦しみが待っている.
六動を超えて人間が仏になるということは、「輪廻」というゲームから降りること、つまり「進化」の埒(らち)外に出るということだ.
「死」という最大の苦しみのもとは「DNAのコピー」なのだ.

生きてあることの喜びさえ、ひっきょう生物の「執着」にすぎないのか.
その執着は「生老病死」という苦悩を生み出し、それがこの世の秘密なのだろうか.
なぜホトケになろうとするのか.
鳥やけものや人間より、神であるほうが楽しい、というのだろうか?
私はふと思う.
この手の込んだ輪廻のからくりは、ニンゲンに嫉妬した神が、生み出したものではないか、と.

優れた修行者のみが、生きながらそのありさまを体験するが、
死にゆく身体と意識のあいだでどんな光景が演じられても、生者の側からそれはみえない.
あたかも人間が宇宙の開びゃくを想像するかのように、
「死に向かって先駆する」現存在は、死に至って、「死の先に向かって先駆する」という思いにかられる.
「死の先」とは「仏」のことである.
ああだから現代人は、生前の「業」などどこ吹く風、全力をあげて、生きながらホトケになる方法を、あみだそうとしている.
ビデオゲームの世界を体験したまえ、そこに現代の「バルドゥ」がある.



back home next