2024年4月16日
[本]

「あのことがトラウマになった」などと、軽々しく言わないほうがいい.
著者が述べるトラウマ(心的外傷)の症例は深刻である.
ベトナム帰還兵である患者は、戦後、家族を持ち優秀な弁護士として生活しているが、戦場で起こった「あのこと」が蘇ると、恐怖や怒りを通り越して、自分が自分であることができなくなる.
「あのこと」とは、戦友が無惨に殺された体験というだけでなく、その復讐として、村の男を虐殺したこと子供を殺したこと女をレイプしたこと.
被害も加害も、トラウマになる.
それは単なる「思い」や「心情」ではなく、身体が反応してしまうのである.
この書に書かれた患者たちは、「ふつう」に生きられないことに苦しんでいる.
人間が危機的な状況に遭遇すると、身体は咄嗟に自分を守ろうとする.
著者はそれを、感情が理性の制御を奪い取る、という説明をする.
トラウマとは、その仕組みが限界を超え、「事件」が終わった後も脳が「正常」に戻らなくなる、ということである.
このような症例は、第一次世界大戦の頃から知られていたが、アメリカ精神医学会が、兵士の心的外傷後ストレス障害(PTSD)を認めたのは1980年.
それまでは、単なる個人の気分あるいは心の弱さと考えられてきた.
この書に書かれていることは、
著者の研究と治療体験をもとに、欧米の医学界で、この症例がどのように扱われてきたかをたどること.
トラウマが、人間が生きる上で必然的に現れる反応であること.
それを脳スキャンのような最新技術を使って病理として解析すること.
治癒する方法を提示すること.
この書が優れているのは、論じる対象が「神経科学」の分野を越えて、社会や人間そのものに迫っていることだ.
著者は、最新の脳スキャンシステムを使って、パニックを起こしている患者の脳に何が起こっているのかを調べた.
すると、大脳皮質の「ブローカ野」と呼ばれる領域の活動が低下して、「脳卒中」に似た状態になっているという.
『ブローカ野がきちんと機能しないと、思考や感情を言葉にできない。』
『トラウマはすべて、言語習得以前の次元にある。』
このことは、言葉を使ったセラピーのような治療法が、必ずしも有効でないことを示している.
さらに、
『私はPTSDのための薬の研究を非常に多く行なったあと、精神科の薬には重大な欠点があることに気づくに至った。こうした薬は、根底にある肝心な問題への対処から注意を逸らしかねないのだ。
精神的な問題を脳の疾患と捉える脳疾患モデルは、人々の運命の主導権を本人の手から奪い取り、彼らの問題の解決を医師と保険会社に委ねる。』
著者はいう.
『私たちがどれほど洞察や理解を深めようとも、理性を司る理性脳には情動脳を説得できない。』
『彼らは自分のトラウマ体験を、現在進行中の自分の生活の流れに統合していなかった。
彼らは「あのとき」にとどまり続け、「今」に生きる術、現在を思う存分生きる術を知らなかった。』
「今を生きる」というのが、治療の目標なのだ.
心の底に隠れていた事件を思い出せば悩みは解消するという、フロイト/ブロイアーが言うような、あるいはハリウッド映画のような、生易しい話ではない.
そもそもトラウマはなくならないし、言葉にすることもできない.
それは文字通り身体が記憶しているのである.
医師に求められるのは、患者に生きる意欲を持たせること.
感情と理性のバランスを取り戻すこと.
この著者が優れた医師であると思わせるのは、人間を総体的にとらえようとしていること.
「身体と魂」「原因と結果」を分離して、原因を消せば病は治る、という「脳バカ」発想をしないこと.
この書で著者が提示する治療方法は多岐に渡っていて、興味深い.
MDMA(幻覚剤)、自己表現のためのアート、音楽、ダンス、演劇・・
EMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)というのは、治療のため患者が事件を思い出す時に、医師の指の動きを目で追う、というだけの療法である.
これはレム睡眠時の身体反応を再現しているらしい、つまり睡眠には治癒力がある.
ヨーガによる呼吸と心拍の意識化は、交感神経と副交感神経の均衡をもたらす.
「内的家族システム療法(IFS)」というのは、複数の患者たちが、脳内の記憶役を演じるという摩訶不思議な療法だ.
「ストラクチャー」と呼んでいる療法は、内面の世界を実空間に投影するだけでなく、患者の過去を修正するチカラがある.
「ニューロフィードバック」という技術は、例えば「アルファ/ベータ/シータ波」といった睡眠時の脳波をリアルタイムで検知しながら、自分で脳を制御する方法である.
コンピューターによる「qEEG(定量的脳波図)解析」、「ミラーリング・エクササイズ」・・よくまあ考えつくものだと思う.
それでも、苦しんでいた患者たちが、このような治療で生きていく力を取り戻す経緯は、感動的である.
トラウマは、戦争や事故で生じるだけでなく、幼児期のネグレクトや性的虐待でも起こる.
アメリカ最大の公衆保健問題は、ガンでも心臓疾患でもうつ病でもアルコール依存症でも薬物中毒でもなく、「児童虐待」である.
それは、真っ当な親子のあり様の崩壊と等しい.
それが、アメリカ社会の病巣の根底に横たわっていると、著者は主張する.
驚くべき話である.
『新生児ができること----食べ、眠り、目覚め、泣き、呼吸をすることも、温度や空腹、おむつの湿り気、痛みを感じることも、排尿や排便で毒素を体外に出すことも----は、すべてこの爬虫類脳が受け持っている。』
『大脳辺縁系は「哺乳類脳」とも呼ばれ、・・脳のこの部位の発達は、私たちが生まれたあとに本格化する。
そこは情動の座であり、危険の監視装置であり、何が楽しくて何が恐ろしいかの判断者であり、生命の維持にとって何が重要で何が重要でないかの裁定者だ。』
幼児期に「爬虫類脳」から「哺乳類脳」へ順調に発育できないと、人間は精神的な不安を抱え込む.
安心し信頼できる父や母を持たなかった子供が、無意識に自分の心を防衛することでトラウマを負う.
そして、それに気づかないまま大人になる.
著者が丹念にたどる、幼児期に傷を負った大人たちの症例は、なんとも無惨だ.
それは、大人が戦場で体験するトラウマより、はるかに治癒が難しいと著者はいう.
「幼少期に安全で保護された人間関係を持つこと」の大切さを、著者は繰り返し訴えている.
大人になって自分の「性格」に苦しむ患者へ、著者の質問は次のように始まる.
「家族のなかで、愛情を注いでくれたのは誰ですか」
そして、
「子供のころ、いっしょにいて安全だと思える人はいましたか」という問いに、
「誰もいなかった」と答える人がいるのである.
その事はやがて、相手に対してどう振るまえば良いのかわからない、という疾患を生む.
あらゆる価値観の根源が、家族と友人だというアメリカ社会の底に、こんな事実が隠れている.
社会に蔓延するドラッグや暴力に対処するより、幼児期の子どもの心のケアをする方がはるかに理にかなっている、と著者はいう.
戦争や事故を防ぐことは難しくても、家庭内のネグレクトや性的虐待を防ぐことが、なぜできないのか.
トラウマを負った子どもは、大人になって、自分の子どもに同じことをくり返すのか.
宗教でも愛でも道徳でも法律でも、「児童虐待」を防げないというアメリカの現実.
著者の論考が戦争や事故によるトラウマから、幼児期の体験にまで視野が広がると、この書は、ほとんど精神病の領域に突入する.
人間の精神とは、心的外傷そのものではないかという思いにさらされる.
我々は、世界に覚醒した人間という生物の、すさまじいエネルギーをみている.
トラウマは、精神、心、認識といった領域に発生する、免疫の過剰反応のようなものだ、と私は思う.
人間の生存に欠かせない機能が暴走すると、死に至るほどの重篤な疾患をひき起こす.
そのことは、過酷で危機的な状況下ではなく、家にのんびりしているような平穏な状況にこそ、人間とは何かという根源が現われる、ということだ.
「安心していられる場所がある」「信頼できる人がいる」ということが、実は人間の存在にとって根源的に重要なことなのだ.
人が現実にトラウマで苦しんでいることを棚に上げれば、人間とはまぁなんと難儀な生きものか.
トラウマは、人間性の「陰画」(ネガフィルム)なのだ.
その苦しみから逃れる対策はひとつしかない.
「魂」が「身体性」を取り戻すことである.
と同時に、例えば太宰治も三島由紀夫も、まちがいなくトラウマを抱えていた.
トラウマは文化を生む、のである.
この書にある、コンピューターを使った「アルファ・シータ・トレーニング」というのは、入眠状態の脳に「報酬」を与えて、トラウマを安全な連想に変更するのだという.
この療法には大きな効果があるというが、私には妙な既視感(デジャビュ)がある.
キューブリックの「時計じかけのオレンジ」(1971)で、暴力若者アレックス(マルコム・マクダウェル)が、強制的な洗脳治療を受けるシーン.
ベートーベンの音楽と共に残酷な暴力シーンを見せられながら苦痛を与えられ、アレックスは廃人同様になる.
アレックスの暴力が、幼児期のトラウマに依存するという邪推をするなら、この映画の国家権力は、暴力を嫌悪するトラウマを、さらにその身体に植え込んだ、ということになる.
人体は、トラウマの容器と化す.
『そうして彼等のツルハシの一打ちがほんの少ししかアスファルトをえぐらないことも
まつたくおなじであつた
何といふ記憶!
固定されてしまつた記憶はまがふかたなく現在の苦悩の形態の象徴に外ならないことを知つたとき
わたしは別にいまある場所を逃れようとは思はなくなつたのである』
「固有時との対話」吉本隆明