2024年4月1日
[本]

作者はこの書の序で、『水滸伝』の作者は子孫三代口のきけない子が生まれ、紫式部は『源氏物語』を著して地獄に堕ちたという説話を紹介している.
「嘘話で人心を惑わせた報い」ということらしい.
小説なんぞ読むのも書くのも身体に良くない.
と知りながら、人々はとかく面妖な話が好きなのだ.
まず、文中の、あふれんばかりの中国故事に驚く.
庶民の常識として、誰もがそれらに通じていた、ということだろうか.
原書の本文は漢字かな混じりの書体で、私にはとても読めないが、
それを版木に彫って印刷するのだから、グーテンベルクの活版印刷とはわけが違う.
よくまぁこんな方法で、江戸時代の「出版文化が花開いた」ものだと思う.
全九話
『白峰』は、四国の白峰山で、怨霊となった崇徳院と対話する西行の話である.
「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」
崇徳院は、日本の三大怨霊(菅原道真、平将門、崇徳天皇)の一人で、この歌ほど「粋な男」ではないらしい.
1156年の権力争い「保元の乱」に敗れた院は、
『汝聞け。帝位は人の極なり。若(もし)人道上より乱す則(とき)は、天の命に応じ、民の望に順(したが)ふて是を伐(うつ)』
道義に反する皇帝は、天命に従い、人民に代わって滅ぼしていいのだ、と主張する.
負けじと反論する西行は、内外の故事を引き合いに出す.
『又周の創、「武王一たび怒りて天下の民を安くす。臣として君を弑(しゐ)すといふべからず。
仁を賊(ぬす)み義を賊む、一夫の紂(ちう)を誅(ちう)するなり」といふ事、孟子といふ書にありと人の伝へに聞侍る。』
「王殺し」は日本にあってはならないと西行はいう.
孟子がいう「易姓革命説」は、いわば「天皇機関説」である.
西行はこれを否定し、日本の天皇は価値と権力の総本山であり、間違いがあるとするなら、天皇自身が自らを正す力を持っているべきだ、と主張する.
しかし、
『汝見よ。平氏も又久しからじ。雅仁 [後白河上皇] 朕(われ)につらかりしほどは終(つひ)に報(むく)ふべきぞ」と、御声いやましに恐しく聞えけり。
西行いふ。「君かくまで魔界の悪業につながれて、仏土に億万里を隔(へだて)給へばふたびいはじ」とて、只黙してむかひ居たりける。』
ああ、これが王たる院の末路か.
西行は念仏を唱える.
ひとは、うらみつらみねたみそねみ、その執着から解放されよ.
もはや仏にすがることが唯一の道なのだ.
訪ねる人もない僻地に流され、無念の思いにやるかたないこの老人の狂気の、なんと哀れなことか.
その後この国に蔓延した「わざわい」は、院の怨念であると人々は信じ怖れた.
『菊花の約』は、義兄弟のちぎりを交わした男が、死んで亡霊となって約束を果たしに来る、という話.
なんだか「走れメロス」を思い出す.
『浅茅が宿』
都に出た夫の帰りをひたすら待ちわびて、亡霊となって再会する女の話.
決して妻思いではなかった夫を、うらむわけではない、けなげな妻・宮木が哀れ.
これは泣かせる.
『夢応の鯉魚』
自らが鯉になって、あわや人間に食べられるか、という体験をするファンタジー.
『仏法僧』
旅の老人が、高野山で、亡霊たちが集団で酒盛りをする現場に居合わせる、というドキュメンタリー.
亡霊は、この地で憤死した豊臣秀次の家臣達.
『吉備津の釜』
性懲りも無く浮気をする男の無惨な死は、圓朝の「牡丹燈籠」を思い出す.
『蛇性の婬』
これはどこかで聞いた話で、「浅茅が宿」とともに、溝口健二が映画化した.
それにしても真女子の執念深さの、おそろしいこと.
くわばらくわばら.
『青頭巾』
妄執に迷うのは女だけではない.
山寺の僧侶が美童に迷い、その童の死後、死体を喰って食人鬼となったという.
僧は、快庵禅師に助けを求め、快庵は「江月照松風吹 永夜清宵何所為」という哥を唱えよと言って去る.
翌年、快庵が山寺を訪れると、か細い声がきこえる.
「そもさん何所為(なんのしょゐぞ)」一喝すると、青頭巾と骨だけが残った.
なんとむなしくさみしい.
『貧福論』
金(マネー)の話である.
金は正しく使えば有効な力になると信じる主人公のもとへ、黄金の精霊が現われ一夜語り明かす.
世間が金の徳を軽んじていると精霊は嘆くが、主人公は、富人の多くが貪欲残忍であり、逆に忠孝慈悲の人が貧しいのはなぜかと、憤慨しつつ訊ねる.
精霊は、
『我もと神にあらず仏にあらず。只これ非情なり。
非情のものとして人の善悪を糺(ただ)し、それにしたがふべきいはれなし。
善を撫(なで)悪を罪するは、天なり、神なり、仏なり。
(この)三ツのものは道なり。我ともがらのおよぶべきにあらず。
只かれらがつかへ傅(かしづ)く事のうやうやしきにあつまるとしるべし。
これ金に霊あれども人とこゝろの異なる所なり。』
自分(金の精霊)は、神仏とは違う非情のものであって、善悪とは関わらない存在だから、どんなにケチで無慈悲な人間でも、金銀を大事にする者の所に集まるのだという.
あはは、おもしろい.
『かく果(はつ)るを仏家には前業(ぜんごう)をもて説(とき)しめし、儒門には天命と教ふ。』
この世での金持ちと貧乏は、仏教は前世の因果であると説き、儒教は天命であると教える.
正しく生きたその甲斐は、あの世で清算するというキリスト教と、この世で帳尻を合わせるユダヤ教の違いと同じだ.
どちらにしても、善良な貧乏人と、強欲な金持ちの存在は、社会正義の不条理なのである.
かくして、
『不徳の人のたからを積(つむ)は、これとあらそふことわり、君子は論ずる事なかれ。
ときを得たらん人の倹約を守りついえを省きてよく務めんには、おのづから家富人服すべし。
我は仏家の前業もしらず。儒門の天命にも抱(かか)はらず。異なる境(さかひ)にあそぶなり」といふ。』
金(マネー)は、神も仏もあずかりしらぬところで、自己増殖するのであり、ひとはそれに踊らされる.
秋成の死後半世紀を経て、カール・マルクスという男が、この世界に、資本という名の妖怪が存在することを見抜いた.
この世は、うらみつらみでできている.
それは流行病(はやりやまい)のように伝染し、世の中を覆う.
が、この書、不気味な怨霊話ばかりではない.
「白峰」や「青頭巾」には、ひとのあさましさの先の、泣き疲れて静かになった子どものような、寂寥を感じる.
「貧福論」は、その身もふたもないドライさで、近代合理主義の萌芽をみる思いがする.
ひっきょう、愛も怨みも貪欲も、しょせんは「しゃれこうべ」のなす夢.