錆びたナイフ

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2024年2月11日
[舞台]

「木六駄」 狂言


「木六駄」



木六駄(きろくだ)とは、薪を積んだ牛6頭のこと.
さらに炭六駄と酒を一樽.
これらを都の伯父へ届けるよう、太郎冠者は命じられる.
折りからの雪、合計12頭の牛を引いて山を越えなければならない.
太郎冠者は最初、とてもむりと断るのだが、主人が綿入れをくれるというので引き受ける.

紐につないで牛を引いて行く、のではないらしい.
むち一本で山道を追ってゆくのである.
そんなことできるのか? 私には想像もかなわぬ.
橋掛りから舞台まで、深々と降る雪の中を「ちょうちょう」と牛を追い、かじかんだ指にはぁと息を吐く.
やっと峠にたどりつき、そこの茶店で一休み.
酒を所望するが、茶店の主人は酒を切らしているという.
がっかりする太郎冠者.
すると主人が、手に持っているのは何かと問う.
進物の酒だ、と太郎冠者.
それを飲んだらどうだ.
水で薄めればだいじょうぶ.
それもそうだと、ふたりで酒盛りになる.

狂言に出てくる盃は、人の顔よりも大きい鉢のようなもので、
それに「どぶどぶ」と注いで、きゅーっといっきに飲む.
「ひとつ飲むも、ふたつ飲むも同じことじゃ、もひとつ飲もう」
「それがよかろう」
なんのことはない、ふたりで全部飲んでしまう.
酔えばからからと笑って「ひとさし舞おうか」「いちだんとよかろう」
あはは実に楽しい.

さて、よっぱらって伯父の家にたどりついた太郎冠者、差し出した目録で、酒を飲んでしまったことがばれてしまう.
「あの横着者」
「おゆるされませ、おゆるされませ」
逃げる太郎冠者.
「やるまいぞ、やるまいぞ」
追う叔父ご.

この、単純でおおらかな笑い.
たあいない話なのだが、何度見てもおもしろい.
文楽、歌舞伎、能、狂言といった日本の古典芸能の中で、狂言が一番、私の性に合う.
りんとした発声で「このあたりのものでござる」といった文語の台詞が、心に響くのである.
これはなぜかよくわからない.
「この辺に住んでいる者です」という現代口語ではつまらないのである.
「さてもさても、降るは降るは、こりゃまた真っ黒になって降る」
これは雪の描写.
「心得た」「なかなか」「よいやよいや」「何とあった」「さてさてそれは、結構な物じゃ」
一体なんだろう.
言葉は、意味ではなく「声」なのだ.
そして、
人間のなす「行為」とは、目的を達するための過程ではなく、その過程そのものなのではないか.
太郎冠者がなしたことは、主人の進物を届けることではなく、雪の山道を歩くこと、手持ちの酒を飲むこと・・
つまり、この世に「目的」など存在しない、という気がしてくる.



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