2023年7月28日
[本]

本棚にあった古い本、半世紀前に購入.
この未来社の埴谷雄高シリーズは、「◯◯と××」という題がついていて、どれもはて何と読むのか「わなとはくしゃ」
解題は、支配体制の罠と反体制勢力の拍車、ということらしい.
1950〜60年代、雑誌や新聞紙上に書かれたエッセイ.
内容は、安保闘争、人工衛星や宇宙飛行士の話.
中でも戦争中の思い出話が興味深い.
東京で、官憲の目を潜りながら、組織のオルグと出版活動を続けた著者.
その幾人かは今でも名前を知られた人物が登場する、まるで歴史映画のような話だ.
重苦しいというだけではない、ある種の滑稽さと絶望のないまぜになった時代.
それは、広島長崎への原爆投下で最高潮になる.
経済雑誌の編集をしていた著者らは、ドイツの文献を読んで、原子爆弾があり得ることを知っていた.
『しかも、それはついに完成したのかという科学的な讃嘆をこめた感慨と、戦争もついに終ったという安堵をまじえながらの不思議な絶望的な不安と、それがしかも私達の皆殺しに使われるのだという激しい恐怖とが、相互に異常に混淆しあって、居ても立つてもいられないような、一瞬も凝つとしていられない激しい恐慌状態をもたらしたのである。
この広島への原子爆弾投下から八月十五日の降伏までの期間を日本を震撼させた十日間と呼ぶことができるのであろう。
ソヴェトが宣戦布告した朝のラジオを暗い表情で黙々と聞いているピルディング内のひとびとの不安につつまれた無力な感じ、長崎にまた原子爆弾がおとされたという無限に連続してもはや止めどがなくなったような恐怖感、そしてボツダム宣言を受諾するや否やを決める御前会議がはじまったが果たしてどう決定するかを宮城のすぐ前の丸の内で待っている焦燥感などがつらなっているその四五日間は、それ以前の戦争の経過時間が日から進んで時間の単位になったごとくに、その数時間がさらに数十分に分割されて全身が耳になつてしまったかのような暴風の期間なのであった。』
もとより著者は単なる左翼知識人ではない.
「もっともよい場合でも、国家はひとつのわざわいである」と考えるアナキストである.
革命後に消滅させるはずの国家を、共産党支配のために温存したソ連にも手厳しいが、
1957年ソ連が打ち上げて地球を周回した人工物スプートニクは、世界に衝撃を与えた.
その4年後、周回したのは人間ガガーリンである.
「地球は青かった」
宇宙からみた地球に国境はないが、高度な科学技術の進歩の足下で、地上は国境のいさかいと貧困とが蔓延している.
宇宙飛行士を打ち上げたロケットは、原爆を搭載して他国を壊滅させる兵器にもなる.
戦中、何度投獄されても、この男はあきらめなかった.
この世には、革命が必要であると.
デモ隊を鎮圧する警官たちがいつかデモ隊と一緒になり、国会に迫ることを.
人民を圧殺する武器は、体制を転覆する人民の武器になり得る.
だから、水爆を搭載したICBMミサイルの制御を担う、ソビエトとアメリカの軍人と技術者と科学者が、そのミサイルを自国の支配者に向けて、今すぐ核兵器を廃絶せよと迫る日が来る、と.
この絵空事の滑稽さと虚しさよ.
宇宙を思わなければ、とうてい正気を保てぬ.
著者は1997年に亡くなった.
私はこの書の中に、少なくとも現代に通じる卓見あるいは予感を、感じることができなかった.
戦前戦中の左翼の中に、資本主義はやがて世界恐慌を引き起こして崩壊し、そのあとに、共産主義社会がやってくる、という思いがあったらしい.
しかし資本主義は、いつまでたっても崩壊しなかった.
著者は、無条件に「民主主義」や「社会主義」を信奉したわけではない.
「目覚めよ労働者諸君!」
いやこの男は、声高な団結を叫ばなかった.
団結を阻む人間の発想の一つ一つを克服しようとした.
戦中、憲兵に捕らえられた者の幾人かはそのまま帰って来なかった.
現代の支配者は、人民向かって、逆らえば殺すぞ、とはいわない.
国民の命を守るためと言えば、なんでもできると、気づいたのである.
想像を絶する、とんでもない時代がやって来た.
永久革命を夢見たこの老人が存命なら、現代世界をなんと評するか.
敵を眼前にして銃の引き金を引くのではない、ボタンひとつではるか彼方の敵を殲滅する兵器が、とうに現実となった.
著者は「不可触兵器」と呼んでその危険性を指摘したが、
今、ドローン兵器同士が戦闘をするなら、やがて、戦争はサイバー空間内に置きかわって、ドローンさえも不要になるだろう.
つまり勝ち負けは、ジャンケンで決めるのと同じことになる.
科学技術による兵器の進歩は、人間を限りなく矮小化してゆく.
そもそも現代の戦争の目的は、敵を打ち負かすことではなく、破壊や殺戮による消耗であり、つまり巨大な消費イベントなのだ.
銃弾も爆薬もいらなくなるわけではない、使っても使わなくても、兵器は常に改良され生産される.
ドローンがあれば兵士はいらない.
優れたゲームプレーヤーが海外からオンラインで参戦するということなど、とっくにやっているだろう.
市民も大人も子供も都市も住宅も、破壊され消費される対象としてだけ、必要なのだ.
戦争を引き起こすチカラは、兵器でも国家でもない、資本である.
同時に、戦争を停止するチカラもまた、資本である.
侵略だ正義だ悪だというのは、あとからつけたしたそれぞれの為政者のキャンペーンである.
われわれはそれを80年前に、イヤというほど思い知ったではないか.
今や米国のウクライナへの武器援助総額は、日本の年間防衛費の総額を超えた.
資本とは、人間がマネーというエサを与えて巨大化した怪獣である.
今世紀、このモンスターは、人間が制御できる大きさをはるかに超えた.
これが、現代の「罠と拍車」である.
私は戦争を知らないが、青年時代にふれた思想の根幹は戦争だった.
その「戦争感」は、1970年代のベトナム反戦運動の中で、急激に消えていった.
それが、コロナ騒ぎの中で、実はしっかりと先祖返りしていることがあらわになった.
80年前と同じ、なのである.
埴谷雄高はいう.
「人類を救えるのは文学だけですよ」
私もそう思う.
人類を救うのは、科学技術でも医療でも、ましてや兵器ではない、文学である、と.
しかし、今どきだれも「ブンガク」など読まない.
話は簡単である、つまりだれも、救われたいと思っていないのだ.