錆びたナイフ

back index next

2022年11月25日
[本]

「道徳の系譜」 ニーチェ


「道徳の系譜」



動物の世界に「良いキリン」と「悪いキリン」はいない.
「正しいライオン」と「間違ったライオン」も、いない.
「ニンゲンという動物」だけが、このこと、善悪、つまり「道徳」という価値概念を持っている.
持っているだけでなく、それに従って生きようとする.
ニーチェは、その概念が何処からきたのか、何に依存しているのかを論じている.
道徳は、生物学、心理学、物理学、どれにも依存していない.
例えば、他人のために自己を犠牲にする利他的な行為を「善」とみなすこと.
ニーチェはこれを笑いとばす.
思いこみを捨てて世界を見たまえ、答えは歴史の中にある.
著者は「よい(gut)」という言葉が、どのように生まれて変化したか、広範な文献知識を駆使して、古代ギリシャの神々と人々の中にその起源を見い出した.

話は簡単である.
『「よい」という判断は「よいこと」を示される人々の側から生じるのではない、「よい」のは「よい人間」自身だった。
 換言すれば、高貴な人々、強力な人々、高位の人々、高邁な人々が、自分たち自身および自分たちの行為を「よい」と感じ、つまり第一級のものと決めて、これをすべての低級なもの、卑賤なもの、卑俗なもの、賤民的なものに対置したのだ』
『騎士的・貴族的な価値判断の前提をなすものは、力強い肉体、若々しい、豊かな泡立ち溢れるばかりの健康、並びにそれを保持するために必要な種々の条件、すなわち戦争・冒険・狩猟・舞踏・闘技、そのほか一般に強い自由な快活な行動を含むすべてのものである』
単に、力のある人間が、生きる上で、嬉々としてやってのけることが「良いこと」であり、力のない人間が、それをなし得ないことを「悪いこと」と呼ぶ.
それは、良いことは悪いことより価値がある、ということを意味しない.
人間には、階級に似た力の差異があり、それはありのままそうである、というのに過ぎない.
これが、ニーチェの言う「善悪」の根源である.

しかし、ニーチェの凄さは、ここから始まる.
この「善悪」の概念が「ひっくりかえる」のである.
『惨めなる者のみが善き者である。 貧しき者、力なき者、卑しき者のみが善き者である。
 悩める者、乏しき者、病める者、醜き者こそ唯一の敬虔なる者であり、唯一の神に幸いなる者であって、彼らのためにのみ至福はある。
 これに反して汝ら高貴にして強大なる者よ、汝らは永劫に悪しき者、残忍なる者、淫逸なる者、飽くことを知らざる者、神を無みする者である。
 汝らはまた永遠に救われざる者、呪われたる者、罰せられたる者であろう!』
支配され、虐げられる者こそ「善」なのだという発想が現れる.
この、支配者への反感と価値の転倒を組織したのが、ユダヤ・キリスト教である、と著者は言う.
『あのユダヤ人たちこそは、 恐るべき整合性をもって貴族的価値方程式(よい=高貴な=強力な=美しい=幸福な=神に愛せられる)に対する逆倒を敢行し、最も深刻な憎悪の歯軋りをしながらこの逆倒を固持したのだった』
貴族の持つ「善悪」と、それに反感を持つ者(ルサンチマン)の「善悪」とは、真逆なのである.

『人間の大なる危険は病人である。悪人でもない、「猛獣」でもない。
 初めから不運な者、虐げられている者、打ち挫かれている者――彼ら最も弱き者どもこそは、最もしばしば人間の足下に坑を掘って生活を覆し、生に対する、人間に対する、われわれ自身に対するわれわれの信頼に最も危険な害毒と疑惑とを注ぎ込むのである』
ナポレオンのような英雄を見よ!
彼は平民を支配したいのでも抑圧したいのでもない、身体から湧き出る圧倒的なチカラが、必然的に人々をひきつけ、国を動かす.
支配者が被支配者に対して時として無慈悲であるのは、支配者が自らの命に対してさえ心優しいわけではない、ということに依存している.
『安全・身体・生命・適意に対する彼らの無頓着と軽視、あらゆる破壊において、また勝利と残忍へのあらゆる耽溺において見られる彼らの悦びの驚くべき明るさと深さ』
つまり彼ら英雄は、人間など眼中にないほど、人間に耽溺しているのだ.
それに、あの健忘症.
『自己の敵、自己の災厄、否、自己の非行そのものとすらいつまでも真面目に取り合ってはいられないということ――これが、形を与え、形を補い、全治させ、更に忘却させもする力を溢れるほどもっているあの強い張りきった人性の目印なのだ』
英雄は、忘れっぽいのだ.
一方、支配される者、被害者は、決して忘れない.

この書の大半は「禁欲主義」を論じている.
「禁欲主義」とは、世界を否定し、生を敵視し、官能を信ぜず、官能を超脱しようとすること、である.
それは、善悪の根元をひっくり返したチカラ、罪と怨嗟と復讐の力学.
ひらたくいえば「野暮!」「いけず!」
その中心にいるのが、教会と僧侶たちであり、ニーチェは彼らを痛烈に罵倒している.
ただし、「禁欲主義」が、事実上この世界を席巻し支配していることを、ニーチェはよく知っている.
『人間は自己自身を弁明し、説明し、肯定するすべを知らなかった。
 彼は自己の意義の問題に苦しんだ。
 彼はそれ以外にも苦しんだ。彼は要するに一つの病気の動物であった。
 しかし苦しみそのものが彼の問題であったのではない。
 むしろ「何のために苦しむか」という問いの叫びに対する答えの欠如していたことが彼の問題であった』
少なくともこの問いに答えたのが、ただ一つ「禁欲主義」だったのだ、とニーチェは言う.
『(禁欲主義は)無への意志であり、生に対する嫌忌であり、 生の最も根本的な前提に対する反逆である。
 しかし、やはりそれが一つの意志であるということに変わりはないのだ!
 そこで、私が最後にもう一度繰り返すならばこうである
 人間は欲しないよりは、まだしも無を欲するものである、と・・・』
ニーチェは、禁欲主義的理想を超えることを求めて、かろうじてここにたどり着いたのか.

『ある量の力とは、それと同量の衝動・意志・活動の謂いであるというよりはむしろ、まさにその衝動作用・意志作用・活動作用そのものにほかならない。
 それがそうでなく見えるのは、ただ、すべての作用を作用者によって、すなわち「主体」によって制約されたものと理解し、かつ誤解するあの言語の誘惑 (および言語のうちで化石となった理性の根本的誤謬)に引きずられるからにすぎない』
これは物理的な「力」を説明しているわけではない.
人間の成す行為=チカラが、主体の意思に基づいている、という考えのことを言っている.
そうではないのだ.
狼が羊を襲うのは、狼の意志ではない.
狼は、獲物を襲うことをやめることはできない.
それをしなければ飢えて死ぬ、からではなく、羊を襲うことが、狼であることそのものなのだ.
「禁欲主義」は、羊を襲わない狼があり得る、という発想を生み出す.
すなわち、支配者は非支配者を抑圧するのをやめることができる.
これが、羊たちが、狼を非難するゆえんである.
同時に、罪に対して罰を与えるという、近代法体系の原点でもある.
この底に、万人が平等であること、人間が自由意志をもっていること、善と悪とが相反するものであること、結果の前に原因がある、といった前提が流れている.
「質量」という「力」の背後に「ヒッグス粒子」がある?
音を聴くために耳があるのではない.
音と耳とは等価であり、どちらかが「原因」なのではない.
ニーチェは言う.
『作用・活動・生成の背後には何らの「存在」もない。作用が一切なのだ』

この書の終盤で、ニーチェは、科学を批判している.
『科学自らは決して価値を創造することがない』
『(科学と宗教は)真理の評価と批判の不可能ということに対する同じ信仰の上に立っている』
生も死も排除し、質素と堅実と誠実を胸に「禁欲主義」が求める世界は、「科学のルール」と等価なのだと、ニーチェは言う.
科学者という「人間」は、人間の外に、宇宙の隅々に、あまねく真理が(神が)存在すると考えている.
この揺るがし難い確信は、一神教と同床異夢なのだ.
『科学は今日あらゆる不平・不信・ 悔恨・《自己蔑視》・良心の疚しさの隠れ場所である。
 それは無理想そのものの不安であり、大きな愛の欠如に基づく苦しみであり、強いられた満足に対する不満である。
 おお、今日では科学は何とすべてを蔽い隠していることか!』
『すなわち、一種の生の貧困といったものが両者の前提をなしている、感情の冷却《テンポ》の遅緩、本能に代わる弁証法、顔附きや身振りに刻まれた真面目さ。
 (科学の時代とは)それは疲労の時代であり、しばしば日没の時代、衰亡の時代である。
 漲溢する力、生活に対する確信、未来に対する確信はもはや失われている。
 それはあたかも、民主主義の到来、戦争に代わる平和の仲裁裁判、男女同権、同情の宗教、そのほか生の凋落を示すすべての徴候がよい事柄でないのと同様である』
ニーチェは、現代のリベラリストやフェミニストと真逆のことを目指している.
道徳を論じる場で科学を批判する不思議さ.
宗教が世界の全てではないように、科学が人間の全てではない.
「われら人間に必要なのは、科学にもとづいた合理的な判断」などと言ったら、ニーチェは大笑いするだろう.

映画「未知との遭遇」(1977)で、地球を訪れた宇宙人が、宇宙船に招き入れた人類は、主人公のニアリーただひとりだった.
科学者でも軍人でも政治家でもない、子どものような好奇心と熱情をもった男、つまり「禁欲主義」から最も遠くにいたのがニアリーなのだ.
清く正しく真面目な「禁欲主義」者たちが、喉から手が出るほど欲しいのは、宇宙人の持っている科学技術だ.
しかし宇宙人は、地球人と知識の交換をすることなど、まったく興味がない.
彼らは、お祭り騒ぎのように、いっとき地球人と遊んだあと、さっさと帰ってしまった.

有史以来の人間の歴史は、怨嗟と苦悩に満ちている.
われら「下層平民」の生きる糧は、うらみ、つらみ、ねたみ、そねみ.
これら暗黒面(ダークサイド)のチカラは、確実におのれを蝕む.
その巨大な「煩悩」が生み出した、われらが文明の成果をみるがいい.
雲をつく都市も、月へ行くロケットも、人間存在にとっては、見当はずれの「あだ花」なのだ.
あだ花でも花は花、というみじめさよ.
ニーチェは言う.
人間は目覚めよ.
罪と疾(やま)しさから解放されよ.
「生」は苦悩ではない.
生きるとは、生命とは、どんな場合でも「喜び」なのだ、と.



back home next