2022年9月18日
[舞台]

「ぶんしちもっとい」
原作は三遊亭圓朝.
新橋演舞場、撮影監督は山田洋次.
主人公の長兵衛(中村勘三郎)が見事で、昨日BSで放送された番組を、ついつい最後まで観てしまった.
本所の長屋に住む長兵衛は腕の立つ左官職人だが、酒好き博打好きで借金まみれ、みかねた娘のお久が、自ら女郎屋に身を売る.
女郎屋の女将は、お久の心意気に感じて、長兵衛に五十両の金を貸すが、今年の大晦日までに返さなければお久を客に出すという.
心底反省した長兵衛、酒も博打もすっぱりやめて、きっとお久を迎えに来ると誓う.
その帰り道、長兵衛は、大川の吾妻橋で、身投げをしようとする若い男に出会う.
男は、大店の奉公人文七(中村勘九郎)
店のお客さまから集金の帰り、五十両をスリに盗られ、死んでお詫びをするのだという.
死ぬな、死なせてください、のやりとりのあと、長兵衛は、手持ちの五十両を放り投げるように、文七にくれてやる.
家に帰った長兵衛、娘を売った五十両を見知らぬ男にやった、という話に、その女房(中村扇雀)の怒るまいことか.
女房は、きっと博打ですったに違いないと、長兵衛を責める.
上掲の写真はその時のようす.
みている観客は笑うが、同時に涙がでてくる.
このすさまじい不条理とお先真っ暗を前にして、この可笑しさは、まさに役者と作者の手腕である.
落語では、古今亭志ん生の噺が最高.
大川端のやりとりがキモで、他の演者のように、ここがもたつくと、長兵衛の行為は人間臭いイヤミになる.
この話は、何度聞いても、こんなことはとうでいできない、と思う.
この展開を納得するには、人知を超えた視点がいる.
私が考える貧しい発想は、例えば、長兵衛が死神に出会って、お前の命は今日限りだと言われること.
そうなのだ、自分の命は今日限りだとでも思わなければ、こんなことはできない.
落語にはないシーンが、この芝居にはある.
事情を聞いて、逡巡する長兵衛がつぶやく「ほかにだれも来やしねぇ」
この世に、いやこの宇宙に、死のうとしている男と、それを救うことができる自分、しかいないのである.
長兵衛が文七に言う「面ぁみせろ」
文七が嘘を言っていないこと、この男が心底絶望していることがわかる.
そうするしかない.
金がなければ今この男は死ぬが、この金がなくても今日明日に自分ら親子が死ぬことはない・・
長兵衛の決断は、合理でも犠牲でも人情でもない、まして江戸っ子の気風の良さでもない.
長兵衛の心持ちをどう詮索しても、この展開は、人間のなすことを超えている.
私は「イサクの犠牲」を思い出した.
エホバの神は、アブラハムの信仰を試すために、一人息子のイサクを神に捧げよ、つまり殺せという.
家族がなんと言おうが、アブラハムはそれをなそうとする.
それは、神からの無条件の通告なのだ.
アブラハムの、孤独な決断は、神にしかわからない.
長兵衛の行為を、女房は決して納得しないだろう.
ひよっとしてお久なら、つまりイサクなら、わかってくれるかもしれない・・
人間が、神の無体な要求をそのまま実行しようとするとき、試されるのは神の側である.
結局イサクは救われるし、この芝居もハッピーエンドで終わる.
店の主人が文七を伴って、長兵衛の長屋を訪れ、金は盗まれたのではなく、客先に忘れてあったと告げる.
主人は長兵衛のきっぷに感じいって、お久を身請けし、文七の嫁にするという大円団.
私は思う、
この世では、こうはならない、ということがあり得る.
大川端で長兵衛は、文七の名前すら聞かなかった.
この男、金は、返ってきてもこなくてもいい、と腹をくくったのである.
志ん生の噺を聞くと、そう感じる.
それが、志ん生のすごさだ.
この世には、この世で解決できないことが、ある.