2022年3月26日
[本]

偉大な哲学者が考えた「魂とは何か」
「たましい」とは、簡単に言えば、生きているものにあり、死んだものにはない「もの」、である.
放心状態のことを「魂が抜けたような」と言うが、「魂」は、肉体から抜け出すことができるのか?
それは、はたして「実体」であるのか、あるものの「性質」なのか、何かの「量」なのか.
人間にとって、根源的な謎である.
著者アリストテレスはまず、ギリシャの哲人たちの考えを列挙し批判している.
「地上界」は「火、空気、水、土」の四元素から成り立っていると考えられていた 2,400年前、
エンペドクレスは、似たものは似たものよって知られ、魂は世界のすべてを知るのだから、つまり魂は四元素から構成されている、と言う.
当時、骨や腱や髪などは「土」から成り立っていると考えていたから、すると、人間の「骨や髪」が世界の「土」元素を「知る」のか?
「骨」はものを考えないだろう、と著者は批判する.
デモクリトスは、魂は一種の火や熱であり、球状の原子である、と言う.
アクルマイオンは言う、太陽や月のように、神的なものはすべて、絶え間なく連続的に動いているので、不死である.
魂もまた、不死である.
自己自身を動かすもの、動かすことのできるものこそ魂であり、物を動かすというのが魂の根本なら、磁石にも「魂」がある.
云々・・
この時代の発想として興味をひくのが、幾何学/数学の知識である.
哲人たちは、それを「魂」の働きに当てはめようとした.
『「一」は思惟、「二」は知識であり 、面の数「三」は思いなし、立体の数「四」は感覚である』
これは、思惟は直接的な認識であるから「点=1」、知識は前提と結論を結ぶから「線=2」、思いなし(ドクサ)は真偽の分岐をもつから「面=3」、感覚の対象は物体なので「立体=4」ということらしい.
「魂」は丸か四角か三角かと問われれば、まぁ丸だろうな.
丸の方がいろんなところに入り易いから・・
抽象化した数学の威力で世界を記述しようとする発想は、近代科学の萌芽でもある.
ただし、それで「魂」がうまく説明できた、とは思えない.
この時代のギリシャ人は、天文や自然、動植物、人体に関してかなりの知識を持っていて、それらを貫く、辻褄の合う答えを求めていたのだ.
この世界に「辻褄の合う答え」があると考え、しかもそれを人間が理解できると考えることそのものがすごい、と私は思う.
著者はこの書で、「魂」の能力の一つである「感覚」を詳しく論じている.
触覚や味覚は対象に触れることで発生するが、「見る」「聞く」「嗅ぐ」は空気を通して行われるといった、五感の理論は整然としているように思えるが・・
『感覚はつねに現在しているが、表象のはたらきはそうではない。
またもし表象のはたらきと感覚とは、現実活動態においては同一であるとするならば、獣のすべてに表象のはたらきがそなわっているということが可能ということになるだろう。
しかしそのようには思われないのであり、たとえば蟻や蜜蜂にはそなわるが幼虫にはそなわっていないのである。
さらに、諸々の感覚はつねに真であるが、表象のはたらきはその大部分が偽となる。
さらに加えて、われわれが感覚対象について精確に感覚を活動させている場合には、「われわれにはそれが人間のように見える」と語ることはなく、むしろそう語るのははっきりと感覚していないような場合であり、そのときに表象のはたらきは真であるか偽であるかのどちらかなのである。』
悪文である.
一読しただけでは、何を言っているのかよくわからない.
この書はこのように、決して読み易くはない.
「表象」とは、私の解釈では「抽象化」のことだろう.
蜜蜂が花の蜜を求める時、その目に映る花の像は決して一様ではない.
だからこれが「花だ」と「認識」するためには、感覚が対象を「花」という「表象」に結びつけなければならない.
花の蜜を集めない幼虫には、その能力はない.
さらに、目に何物かが映るということは「真」だが、「表象」は「見間違え」ということがある、という事を言っているらしい.
実は、昆虫は彼ら独自の環境世界に生きているのであって、蜜蜂は花を認識していない、とする考えが二千年後に現れる.
だが間違いなく著者は、「存在とは何か」「認識するとはどういうことか」という哲学の根源のとばくちに立っている.
この哲人の思想は、さらその先まで到達する.
『すなわち作用することと作用を受けることとが、作用するものではなく作用を受けるもののうちで成立するように、
感覚されるものの現実活動態と感覚する能力の現実活動態もまた感覚する能力のうちに成立するのである。』
「青いリンゴ」は、単独でそこにあるなら単なる「可能態(デュミナス)」だが、リンゴに光があたり、人間の目が光を受け取り、なおかつ人間がそれを注視することではじめて「現実態(エネルゲイア)」としてリンゴが成立する、というのである.
その時「現実態」として、リンゴと視覚とは等価である.
その時代の「初期の自然学者たち」は、この「可能態」と「現実態」という「存在の二重性」を理解していない、と著者はいう.
すなわち著者は「実存」を語っている.
「家」とは、石と木でできたものであり、人を雨や風から守るもの、である.
何であるかと問うことは、その「素材」と「機能」を語らねばならない.
では、「魂」の「素材」と「機能」は何であるか.
著者はそれを、「食べる」「感じる」「考える」といったごく当たり前の人間の行為から、考え抜こうとする.
食べる=栄養摂取は、全ての生物が持っている基本的な能力である.
それは、食べなければ死んでしまうから、ではなく、食べることそのものが、生きていること、なのである.
かくして著者アリストテレスの結論は、時代を抜きん出ている.
「魂」は『可能的に生命をもつ自然的物体の、形相としての実体』であり、
『魂は、栄養摂取、感覚、思考、運動などの始原 (原理)であり、それらによって、規定される』と言う.
言い方はむずかしいが、要するに「魂」とは、身体とは分割できない、生きることそのもの、と見ている.
「命」は、肉体の性質でも機能でもない、「ありさま」なのであり、「魂」はその「いのちのみなもと」なのである.
『実際のところ、「魂が憐れむ」「魂が学ぶ」「魂が思考する」と語るのではなく、「人間が魂によってそうする」と語る方が、おそらくより適切であろう。
ただし、それの意味するところは、魂のうちに動[運動変化]が存在するということではなく、あるときには魂にまで動 [運動変化]が到来するし、またあるときには魂から動[運動変化]が生起するということであり、
たとえば感覚はこれという確定したあり方の事物を起点とするのであり、想起は魂から始まって感覚器官の内部の運動変化あるいはその残留物へと至るのである。』
著者が「動[運動変化]」というのは、単に身体が動くというだけでなく、不安や恐怖を感じた時に、心拍や呼吸が速くなることも含んでいる.
このことは、脳に現れる電流の変化や血流の変化は、人間の思考や活動の「原因」ではなく「結果」だ、ということになる.
著者は「生命や心的能力が生命なき物体の状態へとすべて還元されるものではなく、それ独自の実在性をもつ」と考えている.
「同名異義」という発想が出てくる.
青銅がダビデ像になるのは、彫像作者の意図という偶然であるが、魂が身体に宿るのは必然だ.
だから、魂を失った「肉体」は「身体」ではない、それは似て非なるもの「同名異義」と呼ぶものである、と.
人間の臓器をつなぎあわせても、人間は生まれない.
つまり、フランケンシュタイン博士の作った怪物は、人間と「同名異義」である.
この発想は、現代医学とは相入れない.
しかし私は思う、ダビデ像は、やはりダビデなのではないか.
子供は、そう思うだろう.
今は誰も「たましひ」のことを言わない.
代わりにせいぜい「心」とか「意識」とか言う.
「心」とは、感情のありようであって、「魂」とは違う.
レム睡眠中は「ない」がノンレム睡眠中は「ある」という「意識」など、「魂」の「余波」みたいなものではないか.
現代科学の、分子レベルまで解読した生命の仕組みを説明しても、アリストテレスは納得しないだろう.
それは、単に素材としての身体の「可能態」を述べているだけだ、「現実態」としての「魂」はどこにあるのか、と.
彼は、身体と魂とを「封蝋(ふうろう)とその印形」という卓抜なたとえで言い表した.
「封蝋」と「印形」は一体であり、「封蝋」は「印形」の「原因」ではない.
現代人にとって、命のみなもとは「魂」ではなく、「医療」である.
デカルトから始まった、近代科学の還元論が、とっくに捨て去ったもの.
今や子どもにしかわからない「魂」は、とうにニンゲン界から抜け去ってしまった.