錆びたナイフ

back index next

2021年9月26日
[本]

「一億三千万人のための『論語』教室」 高橋源一郎


「一億三千万人のための『論語』教室」


誰でも聞いたことがある、
《子曰(しのたまは)く、学んで時に之を習う。亦(ま)た悦ばしからずや。
 朋(とも)あり、遠方より来る。亦た楽しからずや。
 人知らずしていきどおらず。亦た君子ならずや。》
から始まって、499項に及ぶ「論語」の全訳である.
読み下し文に付記された、著者の現代口語訳は、読み易く、ユーモアに富んでいる.
孔子は、人間を実によく見ている.
紀元前の人物・孔子を描いたこの書物、
単なる人生訓というより、対人関係の心構え、お役所勤めのノウハウ、弟子の誰が優れているか、といった警句満載である.
当然、仏教もキリスト教もない、創世神話もない、みごとに人間社会だけの話である.
本書の帯にある「『論語』は最強ビジネス書」というコピーのとおり、それで、
面白いかというと、面白くない.

上記の句は、孔子の生活感そのままで、結局書かれたこと以上でも以下でもない、という気がする.
この書に登場する「仁」「義」「信」「礼」「忠」「孝」、というような道徳感は、我々でも直感的に理解できるし、現代世界でも通じるだろう.
孔子がその価値観をどうして生み出したかといえば、当時の中国の歴史からである.

『学問というものは、
 「文学」を読んでことばを知ること、
 次に、人間というもののあり方を知る「礼」について習うこと
 その先に音楽を学び、音楽というものを理解したとき、ようやく、わたしたちは「人間」になることができるのです。』
と孔子はいう.
孔子が「学ぶ」と言っているのは、研究するとか、調査する、検証する、実証する、というようなことではない.
夏・股・周の時代、つまり『周の文王や武王が残した偉大な道』を、文献を通して理解する、ということである.
昔のほうが優れていたという発想は、西欧におけるギリシャ文明崇拝に似ているが、孔子は、人間と世界の意味を問い直す、というようなことはしていない.
だから「論語」は哲学書ではない、「ビジネス書」なのである.

政治に関する話が多い.
専制君主が、孔子の考えるような賢人であったなら、その国は平和で、人々は幸せに暮らせる.
『ここにあげた政策の根本に流れる政治の原理は、人びとにとって大切なものは、食べもの、葬儀、日々の細やかな儀式である、と理解することにある。
 人間は、生まれ、食の心配なく生活し、日々、さまざまな形で社会と交わり、そして、死んでゆく。
 すべての人びとの、そんな日々を、背後から無言で支えるのが政治なのである。』
そのとおり、著者はさかんに、これらを、現代の政治家に聞かせたい話だという.
しかし、孔子はこうも言う.
《子曰く、民は之(これ)に由(よ)らしむべく、之を知らしむべからず。》
『政治は、民衆を熱狂させ、支持させることはできます。だが、できるのは、ただそれだけです。
 決して、民衆に、それがほんとうはどのようなものなのか、なにが起こっているのか、その本質はなんなのかを理解させることだけはできないのです。』
《子曰く、衆、これを悪(にく)むは、必ずこれを察し、衆、これを好むも、必ずこれを察す。》
『気をつけてください、大衆に。いえ、わたしは、大衆を信じるなといっているのではありません。
 彼らこそ、わたしたちが働きかけなければならない唯一の存在なのですから。
 信用してはいけないのは、彼らがする「判断」です。
 なぜなら、彼らの判断は常に揺れ動き、また、感情に支配されているからです。
 彼らが怒り、憎む人がいたら、疑ってください。そして、自分の目と心で判断してください。
 同じように、彼らが愛し、好み、喝采を送る人間にも気をつけてください。そこには危ういなにかがあるのです。』
現代の民主主義とマスコミの危うさを、孔子は見抜いていた.

孔子は、単に理想を掲げただけではない、政治や社会の動きに関して、『どちらにせよ、現実に関与するべきだ』と考えていた.
だから、善政の例として、
《夏(か)の時を行い、殷の輅に乗り、周の冠を服す。》
夏の時代の暦を使い、王は殷の時代の輅(くるま)に乗り、周の時代の冠をかぶる、といったように、その指摘は、たいそうプラグマティックなのである.

一方、
《子貢(しこう)、告朔(こくさく)のき羊を去らんと欲す。子曰く、賜(し)や、爾(なんじ)は其の羊を愛(おし)む。我はその礼を愛む。》
新月の祭りに、羊をほふることに疑問をもった弟子に、孔子は、羊の命より「礼」のほうが大事なのだと答える.
こういうくだりは、ユダヤの神を思わせる.
「礼」とは、単に人間社会の道徳ではなく、神との契約に等しいのか.
孔子がいう「真理」という言葉は、自然の原理でも人間の本質でもない.
彼は「神」の代わりに「天」と言う.
『人間にとって「天」以上に崇高なものは存在しません。』
『天はなにもいいません。ただ黙っているのに、それでも、春夏秋冬は移り変わってゆくし、万物は生まれ育ってゆくものじゃないですか。』
これは、高橋源一郎の解釈.
日本人が感じる「天命」とは、いわば「寿命」のことだが、孔子のいう「天命」は「天の命令」である.
それは、人間を超えたチカラであり、それは人知を超えた正義とみなされている.
『あなたたちが畏れ敬うべきものが三つあります。
 まず、わたしたちにはほんとうには理解できない、超自然的な神の意図、つまり「天命」です。
 それから、その『天命」を理解することができるほど深く学び、人間性を身につけた立派な人物、つまり『大人(たいじん)』です。
 そして、最後が、そのような「天命』についての、本質的な知識をわたしたちに教えてくれる古の哲人たちが、経書に書き残した偉大なことばです。』
これが孔子の考えの基本だが、実は「超自然的な神の意図」と「人間性」の間には、巨大な隔たりがある.
人間は、神=天と、直接対話することはできない.
「天命」を理解する「大人」とは、西欧でいえばイエス・キリストであり、「経書」は「聖書」ということになる.
孔子は、あくまで人間の側にいて、「神」との彼岸を越えることなど、考えてもいなかった.
孔子にとって「真理」は、そこにあるものであって、探求したり、あばいたり、悩んだりするものではない.
だから人間にとっての最大の課題、「死」は、「心肺停止」でも「絶対的な不可能性という可能性」でもなく、
『葬式』なのである.
「死とは葬式のことだ」というなら、葬式をしない動物に「死」はない.
ニンゲンとは、「葬式をするサル」なのである.
《未だ生を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らん。》

この書は、処世訓の洪水だ.
孔子先生が、弟子たちに信頼され慕われた、その雰囲気がよく伝わってくる.
私が想像する孔子像は、高潔な聖人というより、あまたの生徒たちに囲まれながら、俗世間をよく知っていた、内田百間みたいな人物である.



home