2021年7月30日
[本]

NHKの特番で見かける著者は、ドイツ気鋭の若手哲学者.
題名が面白そうだったので2冊読んだ.
前作は、要するに、普遍的で唯一の世界観というものはない、という意味だ
『最大の自然数が存在することがありえない』ように、すべてを網羅する世界観というものもありえない、と著者はいう.
「すべての」、と考えた途端に、さらにそう考えているという思考が生まれるので、つまり際限がないから、「すべての」はありえない‥
人間の思考には限りがない、そのことが思考の限界を生み出す、ということだろう.
「存在」とは、「意味の場」に現れる「ものごと=現象」であり、「世界」は、多層化された「意味の場」であるという.
その「場」には、物体だけではなく、考え方、イメージ、夢も登場する.
『世界が存在しないことが、意味の炸裂を惹き起こす‥
いかなるものも、何らかの意味の場に現象するからこそ存在する。
そのさい、すべてを包摂する意味の場が存在しえない以上、限りなく数多くの意味の場が存在するほかない』
著者のいう「新たな実在論」は、理論というより単なる「決意のようなもの」に思える.
ガブリエルの意図は、要するに「科学」に対する「人文学」の復権だ.
「科学」のいう「宇宙」は、「意味の場」のひとつであって、それがすべてではない.
そもそも宇宙には、国家も人間も恋愛も芸術も、含まれていない!
広大な宇宙の中で、人間の存在は、ちっぽけで無意味で、単なる有機物の集まりに過ぎない、と考えることをやめようではないか!
と著者は主張している.
著者の文章は平易でわかりやすいが、私には、おじさんの繰り言のように聞こえる.
『物や対象は、わたしたちにたいして現象するからこそ現象しているわけではありませんし、わたしたちに気づかれているからこそ存在しているわけでもありません。
ほとんどのものは、たんにわたしたちには気づかれずに現象します。』
ここで著者は、興味深いことを言っている.
「気づかれずに現象(=存在)する」、ということに著者が気づいた、というのはどういうことだろう.
人間が見る「花」は、ミツバチにとっても「花」かもしれないが、
「恐竜「の」化石」というのは、人間が発見しなくても、「恐竜「の」化石」なのだろうか.
発見されない化石は、誰にとっての「意味の場」に現れたのか.
ほんとうに、「世界は存在しない」のか?
『「私」は脳ではない』、この表題は言い得て妙、なかなか良い.
書物としては、こちらのほうがおもしろい.
著者は、精神、自己意識、自由意思といった課題を、古今の思想史から問い直して、現代の脳科学を批判している.
ここでも著者は、多くの科学/哲学理論をやり玉にあげるのだが、その切り口はどうも大雑把で、こんなんで大丈夫か?と言いたくなる.
たとえば、子ども部屋が散らかるのは、『エントロピーではなく、おそらく教育学や心理学、あるいは社会学あたりの研究対象』だと言う.
著者は、あえて日常的な例を提示するのだが、冗談のつもりなのだろうか、どれもピントがずれている.
物理学から見れば、「散らかった」部屋も「整頓」された部屋も同じで、人間の「見た目」を統計学上の確率で表現したときに、その違いが現れる.
エントロピーは、人間が認識する情報量の過小さのことであり、それが乱雑さの程度に見えるのである.
私のような素人から見ても、著者は、物理学と人間の認識の「意味の場」を混同している.
『時間の流れの一方通行性(時間の矢)をエントロピーで説明しようとしても、あいにく何の成果も得られません。
なぜなら、エントロピーは、むしろ時間が過ぎ去ることを前提にしているからです。
そうすると、時間の矢はエントロピーでも説明できません。
エントロピーを持ち出すのは、時間の意識が理解されていないことを隠蔽しようとする企てにすぎません。』
この半可通な説明は、科学でも、哲学でもない.
やがてAIが人類の知能を追い越すとか、脳細胞の働きをコンピュータチップ上に再現すれば、そこに意識が生まれるとか、現代の脳科学を、著者は一笑に付している.
著者は、単に原理的にありえない、と考えているのだが、人間から「ニンゲンのようにみえる」ということは、大事なことだ.
なぜなら、「人間とは何か」と問うことそのものが、哲学の課題なのだから.
著者は、神経や脳に関するあらかたの理論を「間違っている」と切って捨てるが、
『限りなく数多くの意味の場が存在するほかない』のがこの世界なら、間違った理論があることそのものも、この世界を構成している.
天動説が誤りで、地動説が正しいというのは、科学の課題であって、それらの説を生んだ人間と社会の意義を問うのが、哲学である.
さらに言うなら、ある考え方を批判するということは、おのずと批判する側の思想の深さも浅さも露呈する.
意識が、脳内のニューロンの物理現象ではないというなら、「自由意志」とは何か.
「自由」とは、例えばランチにオープンサンドを食べるかパスタを食べるか、どちらかを選ぶことだと、著者は考えている.
しかし、その二つの食べ物が選択の候補にあがったということには、多くの前提条件がある.
条件付きの自由は、本当の自由といえるのか.
偶然や必然は、自由とどんな関係があるのか.
またまたあまたの理論が登場し、著者の話はドツボにハマっているようにみえる.
しかしガブリエルは、この二冊の書を通して、多くの哲学思想や科学理論をへめぐり、「人間は自由だ」という信念に到達したらしい.
ランチに何を食べるか、というような、人間が恣意的に選べる事柄に、思想的な課題はない.
重要な課題は、「選べないこと」あるいは「選ばないこと」のほうにある.
そもそも、生物は、飢えを満たさずにいられないという衝動から、自由であり得るのか?
それは「本能」だから、それは「食べないと死ぬ」からだと、「科学」は貧しい答えを返すだろう.
「哲学」は、何を食べることができるかではなく、なぜ食べるのかを問うべきなのだ.
本能のままに生きる動物と違って、人間は自由意志をもち、それによって悪の道も、また善の道も選ぶことができる.
ガブリエルの考える「自由」の基本は、このユダヤ/キリスト教発想そのものである.
「死すべきもの」として生まれた人間に、「自由」などありえるのか.
ガブリエルが考える「自由」は、たかだか「自力本願」のことだ.
この若い哲学者は、「他力本願」や「則天去私」といった、東洋の発想を、想像すらできないだろう.
人間は、自由になりたいのではない、自由であることからさえ、解放されたいのである.