2021年6月4日
[思いつき]

“猫とは何か”
W:シャーロック、シュレディンガーの猫事件というのを知っているかい?
S:あぁワトソン君、物理学者が、猫を箱に閉じ込めて毒殺した話だろう.
W:いやいや、それだけではない.
事件の発端は、ニールス・ボーアという科学者が、光子や電子といった素粒子は、人間が観測する前には、複数の状態で同時に存在すると言い出したのだ.
S:私が君の部屋の扉を開ける前は、君が居眠りをしているか、本を読んでいるかどちらかだ、ということかね.
W:いや、そうではない、居眠りをしている私と、本を読んでいる私が同時に存在している、というのだ.
S:奇妙な話だね.
W:素粒子のそういう性質は、何度も実験で確認されているそうだ.
問題は、その複数の状態が「観測するとひとつになる」ということだ.
S:僕が見ていなければ、君がベーと舌をだしているかもしれない、ということかい?
君は、そんなことはしないと、私は思うよ.
W:まぁ、聞いてくれ.
シュレディンガーという物理学者が、こういう装置を考え出した.
猫を閉じ込めた箱の中に、放射線に反応する毒薬の噴射装置があって、ラジウムから放射線が出れば、毒が出て猫は死ぬ.
例えば、ラジウムが放射線を出す可能性が1時間で50%だとすると、1時間後に猫が死ぬ確率は五分五分だ.
ボーアの素粒子解釈に従えば、箱を開ける前は、放射線を出すラジウムと出さないラジウムは同時に存在する.
猫も素粒子でできているのだから、ラジウムに連動する猫の生死もまた、同時に存在する.
つまり、箱を開ける前まで、生きている猫と死んだ猫とが同時に存在し、箱を開けると、どちらかに「決定」つまり「収束」する.
S:事件というのは、死体が発見されてはじまるものだろう.
つまりフタを開ける以前のことを、いくら想像してもしようがない、何が問題なのかね.
W:素粒子の世界では、因果関係がひっくり返る場合があるのだよ.
問題は、なぜそういった素粒子の振る舞いが、我々の日常の世界には現れないのか、ということだ.
シュレディンガーは、ボーアの解釈がおかしいという意図で、この実験を提示した.
ボーアが正しいなら、原子レベルのミクロの世界と、我らが暮らすマクロな世界は、何かが決定的に違うということになる.
ではその境界はどこかと、科学者は騒いでるのだ.
S:やれやれ、猫殺しではなく、猫が二匹いるというのが問題なのか.
いつ二匹になるんだい?
W:フタを閉めた時だよ.
S:ふーむ・・
人間のあずかり知らぬところで、生死の二重状態という異様な事件が発生している‥ 物理学者は、それを覗き見してしまった、ということか‥
ところで君、世の中の物質はどれも素粒子でできているのかい?
W:そうさ、君も僕も、身体は細胞からできていて、細胞は分子と原子からできている、それらはどれも素粒子の集まったものだ.
S:では、素粒子を集めれば我々ができあがるのかい? フランケンシュタイン博士の怪物のように.
W:まぁ最近の科学者はおおかた、そのように考えている.
S:問題の核心はそこだな.
ワトソン君、素粒子レベルでみれば、箱の中に猫はいないのだ.
同様に、死んだ猫も生きた猫もいない.
W:どういうことだい?
S:猫は素粒子でできたものではない、ということだよ.
人間は「猫のように見えるもの」を猫と呼ぶ.
同じように、生きているように見えるものを「生きている」、死んだように見えるものを「死んだ」と呼ぶのだ.
W:シャーロック、科学者はそんな主観的で曖昧な定義を認めないよ.
動物はその姿形に決まりがあって、象と犬は違う、例えば細胞のDNAを調べれば、猫は猫と断言できる.
つまり客観的で、揺るがしようのない事実を追求するのが、科学だ.
S:それでは君は、子供がぬいぐるみをネコと呼ぶのは間違いだと言うのかい?
W:そうだよ、それは「科学的」な認識ではない.
S:ふーむ・・
では君が、素粒子レベルの大きさになって、その箱の中に入ったとしよう.
何が見えるかね.
W:それは、酸素や炭素の原子とか、光子とかが見える.
S:もちろんそれらは、ボーアの言うような「重ね合わせ」の振る舞いをしているのだろう.
では、彼らが知りたかった猫は、どうしている?
W:ここでは、大きすぎて、猫など見えない.
S:では、目の前にある一つの酸素原子は、猫のものかい?
W:猫の中にあれば、猫のものだろう.
S:猫が吸い込んだ空気の中の酸素は?、猫の血液中の酸素は?、猫のウンチの中の酸素は、猫ものかい?
W:それは屁理屈だよ、酸素は誰のものでもない、酸素は、酸素だ.
S:つまり、そこに「猫」はいないのだろう?
W:いないはずはないが、見えないだけだ.
S:ははは、ふつう、猫が見えなければ、猫はいない、というのではないか?
君が、素粒子レベルから、だんだん大きくなって、いつになったら猫が見えるかね.
W:まあ、人間くらいの大きさになれば、それがわかるだろう.
S:人間は、人間と等身大の世界観をもっている.
ぬいぐるみでも絵でも、それが猫であることは、一歳の子供でもわかる.
ところが、万物が素粒子でできていると考える科学には、猫とは何かわからないのだ.
W:そんなことはなかろう.
科学者は、動物や自然を長い間研究してきた.
その知識の量は膨大なものだ.
S:人間は、普通に生活することで、世界を認識している.
ボーアもシュレディンガー自身もそれは同じだ.
物質を細胞やDNA、分子や原子に還元する科学は、世界を解釈する強力な手段のひとつだが、その世界は、人間の基本的な認識とは別なのだ.
素粒子の振舞いを表す波動方程式は、実は、「猫」も、「生」も、「死」も記述できない.
ボーアもシュレディンガーも、それに戸惑っているのだ.
彼らは偉大な科学者だが、私がこの事件に関して忠告することがあるとするなら、
科学という「色眼鏡」を外して、ありのままに世界を見なさい、ということだ.
W:シャーロック、科学者たちが一斉に怒りだしそうだ.
S:アヒルのように鳴き、アヒルのように歩くもの、それはアヒルだよ、ワトソン君.
アヒルであることを決めるのは、細胞でもDNAでも素粒子でもない.
W:それで、くだんの猫はどうなったかというと、箱の中に猫はいなかった‥
箱に閉じ込めたら10分もせずに、中の機械を壊したあげく脱走したそうだ.
シャーロックは、素粒子と猫は認識の次元が違う、という言い方をしたが、素粒子が、我々の日常ではありえない奇妙なふるまいをする、という事実に変わりはない.
ホームズは後日、次のように述懐している.
S:ボーアの量子論に対して、『私が見ていない時、月はそこにないのか』と言ったアインシュタインは、とても大事なことを指摘している.
私が目の前のリンゴを見ている時、たとえ私がまばたきをしても、目をそらしても、リンゴはそこにあると確信している.
人間の認識とはそういうものだ.
単に目がリンゴからの光を受けて脳が反応した、というだけではないのだ.
観測していない時に、素粒子の運動と位置は理論上の確率でしか表せないという量子力学は、そもそも素粒子を「見ている」のではない、理論で世界をなぞっているのだ.
科学の方程式でなぞったその世界が奇妙だ、というのはそのとおりで、惑星が楕円軌道を描くというのも、世界は亀の背中に乗っていると考えるのと同じく、奇妙だ.
それは例えば、何も無いものを「ゼロ」と名付け、果てしなく連続するものを「無限」と名付け、それらは理論として扱えると考えた「数学」から始まっている.
科学の理論は、数学という言語で記述され、それは厳密で客観的で、従って真実であると、科学者は考えている.
しかし、どの国の言語も最終的に翻訳可能であるという根拠は、人間が人間の暮らしという共通の基盤をもっているところにある.
科学も同じだ.
そもそ、人間の主観を離れてどんな「学」も成立しない、という基本的な事柄を、科学者はすっかり忘れてしまった.
量子力学が『観測者とは関係なく存在するような、基礎的な実在というものはない』という結論に到達したのなら、
『人間とは関係なく存在するような、基礎的な理論というものはない』といっているのと同じだ.
アインシュタインは、それを見抜いて、同時にそのことを怖れたのだ.