錆びたナイフ

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2020年11月28日
[歌]

「帰って来たヨッパライ」 ザ・フォーク・クルセダーズ


「帰って来たヨッパライ」



“天国とは何か”

オラは死んじまっただぁ〜
というこの歌が流行ったのは1968年.
ケーサツは、酔っ払い運転防止のキャンペーンにこの歌を使ったが、無論そんなヤボな歌ではない.
交通事故で死んだ男が、雲の階段を昇って行き着いたところは、
『天国よいとこ一度はおいで
 酒はうまいしねえちゃんはきれいだ
 ワーワーワッワー』

まるで「キャバレー・天国」のように、酒がうまくてホステスが美人で、ついでに明朗会計なら、それはよいところにちがいない.
もちろん、話は続く.
酒を飲んで浮かれていたこの男は、天国の支配人、つまり神様に怒られる.
『なあおまえ、天国ちゅうとこは、そんなに甘いもんやおまへんや
 もっとまじめにやれ〜』
う〜む.
真面目に酒を飲め、ということだろうか.
天国の人々は、みな蓮の台(はすのうてな)の上に座って、静かに黙想しているとか、音楽を聴いているとか・・
天国では何かほかに、することがあるのだろうか.

この男は、天国でどうしていいかわからなかったのではないか.
男は、欲望が満たされる場所が天国だと思っているが、そこは、ほんとうにそういうところなのか?
『だけど天国にゃこわい神様が
 酒を取り上げていつもどなるんだ』
この神さまは、あまり天国にふさわしくないような気がする.
いや、エデンの園で、リンゴを食べたアダムとイブに、何故隠れるのかと問いつめ、二人に罰を与えて放逐したその時の神もまた、鬼のようであった.
天国は、ルールを守っている限り、平和で安穏なところだ.
動物は、あるがままの世界で生きるだけだが、天国にルールがあることを知っていて、ルールを守らないこともできると知っているのは、人間だけである.
そして、天国は、救われたものがたどり着くところなので、ここから救われるべき人間は、ひとりもいない.
だだ、このヨッパライ男だけが、救われるべき存在だった.
『毎日酒をおらは飲みつづけ
 神様のことをおらはわすれただ』
天国にいて、神の存在を忘れるという、これは究極の至福か冒涜か.
『なあおまえ、まだそんなことばかりやってんのでっか
 ほなら出てゆけ〜』
結局、男は地上に追い返されてしまう.

「静粛に願います、天国は、ドンチャン騒ぎをするところではありません」
ではいったい、天国では、何をすればいいのか.
いやよく考えてみれば、仏教の五戒は、姦淫も飲酒も禁じているから、この男の言うような場所が、天国=浄土にあるはずはない.
男が「キレイなねーちゃん」に出会った店は「Cabaret Hello」という名で、看板の最後の文字「o」が消えかかっていた・・・「キャバレー・地獄」
ヨッパライ男が行ったのは天国ではなく、地獄だったのではないか.

地獄は「地獄八景亡者戯」(じごくばっけいもうじゃのたわむれ).
米朝や枝雀の落語を聴くと、関西弁にお囃子が混じって、この下世話な地獄世界はまるでテーマパークのようで、さほど住みにくいところではないかもしれない.
怒号と悲鳴と抗議とで地獄は、歓楽街のように、にぎやかなところである.
だから「キャバレー・地獄」にこそ、仏さまのようなねーちゃんがいるのである.
店を一歩出れば、焦熱地獄、極寒地獄、賽の河原、阿鼻地獄、叫喚地獄.
あぁ神さま、もう二度と悪いことはしません、改心します.

地獄の苦痛は、人間の可能性への拒否である.
天国の極楽は、何もしないでいられるという、可能性の無効を意味している.
まるで家に居るように、あれもこれも出来るけれど、なにもしないでいられるという天国状態は、人間の存在を宙吊りにする.
地獄では、己が人間であることを思い知るが、天国では、もはや人間である必要はない.
そこでヒトは、どう生きるかを「選択」することはない.
だから天国に「苦悩」はない.
キリスト教の天国と地獄は、人生双六の上がりのように、終着地であり永遠である.
放っておけば家にはゴミが溜まり、人間は年老いるが、天国は、そうではない.
そこでは、もはや時間が経過しないのだ.
永遠であるということは、何も変わらない、ということだ.
酒を飲んで酔っぱらう、針の山を歩かされて血を流す、という因果関係は、もうないのである.
そこに「時間の流れ」があるとしたら、それは仏教の地獄であり、それはいまだ「輪廻」の中にある.

天国は、清浄で美しいが、地獄は、穢(けが)れていて醜い.
天国のホステスは美人で心優しいが、地獄のホステスは鬼のようにおそろしい・・
いや、そんなことはない、それは逆なのだ.
この世を、善悪や美醜で判断するのは、人間だけである.
地獄の住人から見れば、天国のホステスは「醜女(しこめ)」ばかりだが、だれも気にしないのだ.
地獄が与える苦痛は、まさに生きていることのあかしであり、天国は、永遠にその「生」そのものから解放される.
天国は快楽の場ではなく、快楽が無効な場であり、地獄は、アンチ快楽の場である.
だから人間は、地獄にひかれるのだ.
天国と地獄のテーマパークを作ったら、お客は「地獄」の方が多いに決まっている.
お化けも骸骨も出てこない「スモールワールド」より、「ホーンテッドマンション」や、「カリブの海賊」のほうが面白い.
地獄は、死のメタファーですらなく、生そのものであり、
生物の中で人間だけが夢見る「天国」とは、死の先にあるもの、やがて、この宇宙のエントロピーが極大になる時空、のことである.

ずいぶん昔、松本俊夫の「修羅」(1971)という映画を観た.
この映画で、若い僧侶二人が議論をしていたのを覚えている.
極楽は静かで死んだようなところだが、まさに生きていると感じるのは、地獄のほうではないか、と.
その新宿の映画館は満員で、立見だった.
ふと気づくと私の隣に、大島渚が立っていて、画面を見てアハハと笑っていた.
そういえば大島渚は、フォークルの出演で「帰って来たヨッパライ」(1968)という映画を作ったが、ちっとも面白くなかった.

やがて70年代に、ゾンビが現れる.
ゾンビは苦痛を感じない.
それは、最後の審判が終わったことと符合している.
今だに「悔い改めよ、神の裁きの日は近い」という人々は、気づいてないのだ.
すでに審判が降(くだ)ったのだから、貴方と私がいるこの世は、天国か地獄のどちらかである.
どちらにしても、この世の天国化と地獄化が同時に進行している.
「キャバレー天国」と「キャバレー地獄」は、同じ店である.


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