錆びたナイフ

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2020年10月26日
[本]

「林檎貫通式」 飯田有子


「林檎貫通式」



「現代短歌クラシックス」と称して3冊刊行中.
ほかに、
「砂の降る教室」石川美南
「四月の魚」 正岡豊
この飯田有子(いいだありす)が、圧倒的におもしろい.

『大変だ! おとついミンチン先生に復讐ちかったことがばれたぜ』
だれに「復讐」するのか、「ちかった」のか、「ばれた」のか.
「おとつい」「復讐ちかった」のか、「おとつい」「ばれた」のか.
わからない.
第三者に意味を伝える文章としては「不正確」きわまりない.
けれど何べん読んでも可笑しい.
これが、短歌か?
だいたい、五・七・五・七・七になっていない‥

『引き算は大嫌いなのおお寒い埴輪のようにうつろな口は』

『花屋にて看板犬の名尋ねおり「根っこと葉っばです」「根っこと葉っぱですか」』

なんだかもはや、『おいしい生活』‥CMキャッチコピーのごとく.
作者は女子学生だとおもう.

『求愛の鳥のごとくに広げた手つないでアキレス健のばしおり』

『負けたとは思ってないわシャツはだけかさぶたみたいな乳首曝しても』

『それどけてあたしに勝手に当てないでそんな目盛りあたしに関係ない』

「めっちゃ元気」な少女の姿が目に浮かぶ.
たしかにこれは「短文」ではない、「歌」、なのだ.
そして、

『にせものかもしれないわたし放尿はするどく長く陶器叩けり』

おのれがこの世に存在することの、高揚と不条理がビンビン伝わってくる.

『足首まで月星シューズに包まれていさえすればいさえすればね』
そうすればぜったい試合に勝てる!
いや、ちがうな.
呪文のように発語したあと、何を願ったのかわすれた.
この少女はもう、あらぬかたをみている.

80年代の俵万智『サラダ記念日』は、あざやかな「恋愛歌」だったが、
飯田有子にとって、それはある種の生理現象である.

『呼べばおまえがくわえたままで振り返るアイスクリームのかぼそい木べら』

『やわらかき板チョコに指紋のこしてそしてどっちかがしねばいい』

『婦人用トイレ表示がきらいきらいあたしはケンカ強い強い』

『ふぞろいに地へ落ちていくこんなにもまぬけな水が涙だなんて』

あぁ、なんというか、発話する者と言葉とがまっすぐで屈折していない.
言葉を折り畳むこと、重層化すること、で表現するものなどないのだ.

『自らに深く禁ずるものありて蝶の腹部の柔さおそろし』

『あたしは でも 女の誰かがやるんだわ 缶に缶切り突っ立ってるし』

「出産」のことではないかとおもう.

たとえば
『二台のピアノが並んでいました片方のピアノにだけ雨が降っていました』
この歌はつまらないが、

『ジューサーに苺湧き立ち春の野へ逃れたけものの身のそりかえり』
これは、鮮烈な春のイメージ.

作者が全身で言葉にぶつかっている、というのとはちがう.
からだのうちに見知らぬケモノがいて、そいつが世界や言葉に反応するのを、作者は驚愕と狂喜の思いでみている、のである.

たとえば石川美南「砂の降る教室」では、
『想はれず想はずそばにゐる午後のやうに静かな鍵盤楽器』
女学生の生活をつづったと思われる歌で、言葉は平易だが、私にはどれもピンとこなかった.
たかだか31文字程度の単語の並びで、ピンとくるピンとこない、というのは、われながら何を根拠にしているのだろう.

たとえば正岡豊「四月の魚」から、
『夢のすべてが南へかえりおえたころまばたきをする冬の翼よ』
言葉を選んで並べて、作者のもっている心のイメージに近づけようとして、どれもちがう‥
単語が生み出すイメージをひとつひとつを拒否するように、言葉を折りたたんで、全体としてかろうじて見え隠れするイメージが、この歌の目的地なのだ.
まず作者に、描くべきイメージがある、というのが「近代」なのだと思う.

飯田有子には「作者のイメージ」など、ない.
言葉そのものが「立って」「あばれて」「主張」している.
もはや初源的な言葉の「先祖返り」なのだと思う.
断固として、そうなのだ.

『若き母の舌がぬらしたハンカチは真夏の子供のまぶたに置かれ』

『中央線高尾行きなりカカオ行きとはしゃいでいる子の手を引きながら』

あぁ、母になったのだ.
これらの歌は、背後に心のイメージを抱えている.
さて「少女」は、何処へ行くのか.

「カマキリもっと飛ぶのよいわくいいがたいものなんかに負けない」
これは口をついてでてきた私の歌‥
あはは.


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