錆びたナイフ

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2020年9月30日
[本]

「時間は存在しない」 カルロ・ロヴェッリ


「時間は存在しない」



著者ロヴェッリは、イタリア気鋭の理論物理学者
『「時間の流れは、山では速く、低地では遅い」
 驚きましたか? きっと驚いたはず。でも、世界はそういうふうにできている』
この書の最初に出てくるこの文でわかるのは、著者が、時計が時間を表すと考えていること、人間が感じ認識する世界とは別に、原理的な世界構造がある、と考えていること、である.

人間にとっての本来の「時間」とは、何かしようとする時、例えば、靴下を履く時、電車に乗る時、その行為の一瞬一瞬に、泡のように生まれる「可能性」のことである.
それは、膝を曲げられる、ポケットに手を入れられる、というようなことであり、
靴下を履き終わった「未来」の自分に向けて、膝を曲げて履いた「過去」の記憶と、これから膝を曲げようとする行為が、一体になる瞬間が、「現在」である.
だから、人間がぼうっとしているときに「時間」は、生まれない.
私は、そう理解している.
一方「時計」とは、「時刻」を他人と共有するための道具であり、
「もう幾つ寝るとお正月」の「幾つ」は、日が出て日が沈む回数であり、この「昼夜の脈動」をより正確に世界共通化したものが「時計」である.
時計は、単に正確な「振動」をしているだけなのであって、人間本来の「時間」とは何の関係もない.
人類の歴史は数百万年あるが、時計を持ち歩くようになったのはせいぜいここ百年、
人々はいつのまにか「時間」=「時計」と考えるようになった.
アリスのウサギが「時間がない」と言って駆けまわるのは、「時刻に間に合わない」と言っているのであり、
ウサギから時計を取り上げれば、ウサギは「時間がない」と言わなくなる.
モヒャエル・エンデの「モモ」にでてくる「時間どろぼう」もまた、「時間」=「時計」と考えていて、それは蓄えたり盗んだりすることができる.
「時計」は「時刻」を告げるものであり、人々がいう時間がある/時間がない、というのは、時間そのものではない.

この本の表題にある「存在」とは何かという問いは、ここにはなく、ロヴェッリは、方程式の中に時間の変数があれば、それは即ちそれ=時間が「存在する」ことだ、とかたく信じている.
ロヴェッリが研究している「ループ量子重力理論の方程式」には時間という変数がない、だからこの世界に時間はない、というのが著者の考えの基本なのだ.
一方、ニュートンやアインシュタインの方程式に時間変数「t」があったとしても、それはプラスでもマイナスでも成り立つので、過去も未来も同じだ、と著者はいう.
物理学上の「時間」は存在しないのに、「過去、現在、未来」があるように人々が感じるのはなぜか、というのがこの書のテーマである.

「時空は重力場である」という「相対性原理」あたりまで、内容は凡庸なのだが、量子力学に突入して話は混沌とする.
プランク時間と呼ばれる10の-44乗秒より短い時間は物理的に意味がない、だから存在しないという.
時間は連続ではなく、粒状なのである.
『思うにこの熱的にして量子的な時間こそが、この現実の宇宙----根本的なレベルでは時間変数が存在しない宇宙----でわたしたちが「時間」と呼ぶ変数なのだ。
 量子の世界に固有の事物の不確定性は、ぼやけを生む。
 そしてポルツマンのぼやけゆえに、この世界は古典力学が指し示していそうなこととはまったく逆に、たとえ測定可能なものをすべて測定できたとしても、予測不能になる。
 時間の核には、この二つのぼやけの起源----物理系がおびただしい数の粒子からなっているという事実と、量子的な不確定性----がある。
 時間の存在は、ぼやけと深く結びついているのだ。
 そしてそのようなぼやけが生じるのは、わたしたちがこの世界のミクロな詳細を知らないからだ』
この「ぼやけ」話は、この書の白眉なのだが、なんべん読んでもわかったようで、わからない.
エントロピーの話である.
「覆水盆に返らず」という「時間の矢」は、熱力学の第二法則・エントロビー増大の法則のあらわれであり、
人間には、原子/分子レベルの細かいことがわからないので、全体がぼやっとして秩序がくずれていく/エントロピーが増大するように見えるのだ、と著者はいう.
『ボルツマンは、わたしたちが世界を暖味な形で記述するからこそエントロピーが存在するということを示した。
 つまり、熱という概念やエントロビーという概念や過去のエントロピーのほうが低いという見方は、自然を近似的、統計的に記述したときにはじめて生じるものなのだ』
『事物のミクロな状況を観察すると、過去と未来の違いは消えてしまう』
お湯に水を加えたらぬるま湯になるが、個々の水分子の熱=振動から見れば、単にエネルギーのやり取りが永遠に繰り返されているだけ、という意味だろうか.
つまり、ぬるま湯になったと「感じる」のは人間だけ、ということらしい.

お湯に、手を入れてみるのも、温度計で計測するのも、実際には水分子の近似的な運動をみている.
ロヴェッリは、個々の分子が激しく運動していることそのものをみている.
ロヴェッリのその視点から温度=エントロピーを測定するには、統計的な手法が必要なのである.
著者の発想の根源的なズレが、ここにある.
人間の認識と科学的な測定とを分離して、逆さまにみているのである.
私はかつてゲーテが、ニュートンに反論して「黒という色は青色の先にある」と言ったのを思い出す.
ニュートンにとって、黒とは光のない状態であり、つまり、黒色というのは存在しない、のである.
ロヴェッリの考える「時間」も「エントロピー」も、この「黒色」に似ている.

『世界を動かしているのはエネルギー資源ではなく、低いエントロピーの資源なのだ。
 低いエントロビーがなければ、エネルギーは薄まって一様な熱となり、この世界は熱平衡状態になって眠りにつく。
 もはや過去と未来の区別はなく、何も起こらなくなる』
『過去の痕跡があるのに未来の痕跡が存在しないのは、ひとえに過去のエントロピーが低かったからだ』
『宇宙全体がごくゆっくりと崩れていく山のようなもので、その構造は徐々に崩壊しているのだ』
過去のエントロピーが低かったという事実?と、エントロピーの違いは人間の見方が生み出す、という話がこんがらがっており、ロヴェッリのこの話もよくわからない.

なぜ宇宙の初期のエントロピーが低かったのかという問いには、
『宇宙のある部分集合が特別だとすると、その部分集合に関しては、過去の宇宙のエントロピーは低く、熱力学の第二法則が保たれる。
 そしてそこには記憶が存在し、痕跡が残り----生命や思考や進化が生じ得る』という.
つまり私たちはたまたまそのような特別な宇宙にいる、ということらしい.
なぁんだ、これは宇宙の「人間原理」という堂々巡りである.
私は、お釈迦さまの手のひらで奮闘する孫悟空を思いだす.

著者の文章は平易だが読みやすくはない.
どれもこれも説明不足という感じを受ける.
図も少なく、工夫されていない.
各章の冒頭にでてくる「詩」らしきものは、その意味も意図も不明である.
ある事柄を言葉を使って伝えようとするとき、言葉そのものの曖昧さをどうやって超えるのか.
哲学者は、まず「言葉」を検証し再構築しようとする.
物理学者のロヴェッリにとっての言葉は「数学」であり、それは寸分の曖昧さも持っていない.
数式にあらわされたものはそれ自身が表す通りのものであり、説明の必要はない、あるいは説明しようがない、と考えているようだ.

『生命はきわめて秩序立った構造を生み出すとか、局所的にエントロビーを減少させるといわれることが多いが、これは事実ではない。
 単に、餌から低いエントロピーを得ているだけのことで、生命は宇宙のほかの部分同様、自己組織化された無秩序なのである』
「科学に目がくらんだ」としか言いようのない生命感で、がっかりする.
生物も、空の雲も、低いエントロピーを得て自己組織化された「できごと」である.
ロヴェッリは多分本気で、生物も雲も物理的には同じものだ、と考えている.
物理的にはそのとおりだというなら、その限りにおいてそれは、物理学の貧しさを語っているだけだ.
彼はいったい、世界の何を見ているのか.
ぬるま湯も、生きた猫も死んだ猫も、構成する分子に変わりはない.
人間が、湯の温度や猫の生死を区別するのはまさに、それが違ってみえるからである.
生きていることと死んでいることは、人間にとって歴然として情報=価値が違うのである.
それがすなわち、ロヴェッリ自身の言う「エントロピーの差」ということではないか.

著者は『物理学における「時間」はけっきょくのところ、わたしたちがこの世界について無知であることの表れなのである』という.
科学は無知ではない、と言いたいのかもしれないが、話は逆なのだと私は思う.
人間が「無知である」からこそ、物理方程式が「自然」をあらわしているように「みえる」.
たとえば相対性理論の方程式は、ロヴェッリにとって単なる記号の羅列ではなく、3枚続けてエースが出たカードのように、「エントロピーが低い」.
そして、「3枚続けてエースが出た」ことが特別だと考えるのは、自然ではなく、人間自身である.
なぜなら自然は、エースもクイーンも知らないのだから.


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