錆びたナイフ

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2020年9月4日
[本]

「伊勢物語」 在原業平


「伊勢物語」



「むかし、男ありけり。」ではじまる、全125話
短いものは1話3行
どれも、和歌を中心にした短い物語、あるいは思いの切れはし、のようなもの.

九段目
『渡守、「はや舟に乗れ。日も暮れぬ」といふに、‥』
この渡守(船頭)の言葉で思い出した.
この「東下り」は、高校1年生の教科書にあった.
『名にしおはばいざこと問はむ都鳥
 わが思ふ人は在りやなしやと』
千年前に、在原業平(ありわらのなりひら)が角田河(すみだがわ)で詠んだ歌.
かつて「業平橋」と呼ばれた駅は、今や「とうきょうスカイツリー」駅となった.
ところでその時、渡守は、書かれた通りに「発音」したのだろうか.
今なら「早く舟に乗れ、日も暮れた」と言うだろう.
「日も暮れぬ」というのは「夏は来(き)ぬ」というのと同じ「文語」で、この言葉使いは、今では古い唱歌とか能狂言にしか出てこない.
まるで呪文のように、それがおもしろい.

日本語というのは、文面だけでは、誰が誰のことを言っているのかよくわからない.
それでも、なんとなく意味がわかるというのは、自然言語の不思議である.
この本は、原文の脇に主語や目的語のルビがふってあって、読みやすい.
解説と注釈を除くと「伊勢物語」本文はせいぜい50ページくらいだろう.
すべて写本であった時代から、千年を超えて受け継がれたということは、この話よほどおもしろかったのか.
確かにおもしろいのだが、当時の人々の興味は、私が感じるものと同じだったのだろうか.

内容は、古今集や万葉集にある和歌から話を創作した、というものもあり、写本をする人が加筆したらしい話もある.
当時主流の貴族・藤原氏に比べ、傍流だった在原氏の、このイケメン「男」は、高貴な二条后や伊勢斎宮との、道ならぬ恋をほのめかして悶々とする.
この恋愛は周知の事実だったのか.
『あふなあふな思ひはすべしなぞへなく
  高きいやしき苦しかりけり』
作者と主人公の虚実危うい憶測が、スキャンダラスであり、同時にやるせない恋の心情を伝えている.
恋愛話ばかりでない、不遇で閑居した元上司への気遣いや、友人への気配り、都を離れた田舎の話もある.
『咲く花のしたにかくるる人おほみ
 ありしにまさる藤のかげかも』
<大きく咲く花の下にかくれる人が多いので、以前より増して大きくなる藤の木蔭であることよ>
藤の花をめでた宴会で、この歌は「藤原氏」への賛美に隠したイヤミである.
この三十一文字を理解するには、高度な教養と機知が必要なのである.

三十七段
『むかし、男、色ごのみなりける女にあへりけり。うしろめたくや思ひけむ』
『我ならで下紐(したひも)とくな朝顔の
 夕かげ待たぬ花にはありとも』
女が返す.
『ふたりして結びし紐をひとりして
 あひ見るまではとかじとぞ思ふ』
話はこれだけ.
この時代は女のもとへ男が「通い婚」で、恋愛はしごく自由だった.
しかしこの歌、万葉を思わせるおおらかな恋の話、ではない.
校注の渡辺実は、
『だからこそ男の歌は、他の男の存在を前提とした「うしろめたさ」の歌であり、それに対して女が「ひとりして」と答えるのが、その前提をわざと棚上げにして応ずるしたたかな応答となり得ている。』と解説する.
この、たった一対の歌の応答から、この女には複数の男がいるという、要するに、かなりビミョーな雰囲気を感じなければ、この書の面白さはわからない、ということになる.

単なる会話ではない.
歌のやり取りをして、男女がお互いに送った歌を覚えているというだけでなく、それらが当人以外の知るところとなり、最後に歌集におさまる、というのはどういうことか.
私は不思議でしょうがない.
そして、貴族だけでなく庶民の男女もまた、こういうやりとりをしたのだろうか.
歌とは、いったい何か.
探り合い、ほのめかし、うらみごと‥
I need you あるいは Let’s make love というのに、
人間は、これほどもってまわった表現をする.

二十四段
田舎に住んでいた男が、女との別れを惜しみながら都へ出て行って三年、帰って来ない.
女には新しい男ができて、今夜逢いにくるというその日に、都の男が帰って来る.
戸を開けてくれ、と男が言う.
女は、歌を返す.
『あらたまの年の三年を待ちわびて
 ただこよひこそ新枕(にひまくら)すれ』
<三年の間あなたを待ちわびて、ちょうど今夜という今夜、他の男とはじめて枕を交わすことになっているのです>
男は、
『梓弓ま弓つき弓年を経て
 わがせしがごとうるはしみせよ』
<私が長年あなたにしたように、これからは新しい夫を大切にしていきなさいよ>
と言って去る.
女、
『梓弓ひけどひかねどむかしより
 心は君によりにしものを』
女は男の後を追うが、逢うことができなかった.
『あひ思はでかれぬる人をとどめかね
 わが身はいまぞ消えはてぬめる』
女の絶望が、胸を打つ.
この段はわずか19行.
「弓をひく」というのは「心をひく」ということでもある.
戸を隔てた男女の「会話」が、歌という「文学」になっている.
現代文の短編小説でこの思いを表現するのは、簡単ではないだろう.
古文そのものが持っている、言葉のチカラ、である.

二十三段
『まれまれかの高安に来てみれば、はじめこそ心にくくもつくりけれ、いまはうちとけて、
 てづから飯匙(いひがひ)とりて、笥子(けこ)のうつはものにもりけるを見て、心うがりていかずなりにけり。』
男は、ねんごろになった女がうちとけて、しゃもじで飯を盛るようになったのが気に入らない、という.
作者は都風の洗練された「みやび心」を身上としているので、田舎風の単純明快は、ダメなのである.
気持ちはわかるが、なんだか可笑しい.

六段
『白玉か何ぞと人の問ひしとき
 露とこたへて消えなましものを』
身分違いで一緒になれない女を誘拐した、その嵐の晩、女は鬼に食われて消えてしまう.
『足ずりをして泣けどもかひなし』
男は、今になって、女が「草が光っているのは何?」と聞いたのを思い出す.
この、慚愧の思いも心を打つ.

最終段
『むかし、男、わづらひて、心地死ぬべくおぼえければ、
 つひにゆく道とはかねて聞きしかど
  きのふ今日とは思はざりしを』
最後はあっけない.


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