錆びたナイフ

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2020年8月6日
[映画]

「こんな夜更けにバナナかよ」 2018 前田哲


「こんな夜更けにバナナかよ」



筋ジストロフィーで、動かせるのは首から上と手の一部だけ、自分では寝返りもできないという鹿野靖明(大泉洋)34歳をめぐる話.
鹿野は、24時間介護のボランティア・スタッフをつのって、自宅で暮らしている.
この男、口が達者で、ズケズケものをいう.
夜中にバナナが食べたいと言い出して、介護スタッフが街へ買物に走る.
たまたま鹿野の家に来た安藤美咲(高畑充希)は、鹿野のわがままぶりに「あんた、なにさま?」と言って怒る.
美咲は医大生のボランティア田中久(三浦春馬)の恋人なのだが、鹿野は、美咲を好きになる.
自分の家で遠慮するなんて、それじゃ病院で暮らすのと変わらない、というのが鹿野の信条だ.
この映画、病人とその周囲の人々はめそめそ泣いてばかりいるという、邦画のセオリーとはちがう.
鹿野は、母(綾戸智恵)が家にやってくると、クソババア早く帰れと悪口をはく.
あんなからだに生んでしまって、私が悪い、という母親の思いを、なんとしても超えたいのだ.

1日8時間1人で介護するとしても、1週間で21人のスタッフが必要になる.
それをボランティアだけで維持できるのか?
なんとしても「家で生きたい」と叫ぶしかない、その、すごさ.
それがこの映画の核心だ.
全面的に介護で生きるということは、他人を無条件に信頼し、ありのままの自分であるしかない.
スタッフと一緒にポルノビデオを観ながら性欲を発散する‥?
性欲も食欲も知識欲も「徹子の部屋」に出演したいという望みも、そのひとつひとつが喜びであり、生きる糧なのだ.
この病気に有効な治療法はなく、20歳まで生きられないだろうと宣言された主人公にとって、毎日は全力で生きる場なのだ.
介護の現場は毎日すったもんだの大騒ぎだが、悲壮感はない.
このボランティアたちは、鹿野の「板子一枚下は死」という思いを共有している.
田中青年は、このボランティアに参加して、自分に医師になる覚悟ができていないと感じる.
美咲と田中の間が、鹿野を挟んでゆらぐ.

鹿野の病状が進行して、人工呼吸機をつけなければ死ぬ、と医師に言われる.
機械に繋がれることを嫌がっていたのだが、手術が終われば鹿野はケロリとしている.
声が出せなくなったのを、ボランティアたちの工夫と本人の熱意で、声が出るようになる.
饒舌な主人公が復活する.
退院記念パーティーで、鹿野が美咲に結婚を申し込んで断られるのも、これしかないのだと思わせる.
ためらっているヒマはないのだ.
美咲が鹿野に好意を持ったのは、同情ではない、病人であろうがなかろうが、この男には魅力がある.
田中にはそれがわからない.
衆目の前でプロポーズされても、はっきり断る美咲もエライ.
美咲はまだ田中のことを思っていた.

この映画を観ると、
私がいつか寝たきり老人になったら、周囲に気を配り、感謝を忘れない善良な老人、ではなく、わがままで嫌なヤツになりたい、と思う.
病人であること、身体にハンディを負っていること、が問題なのではなく、どう「生」をまっとうするかが問題なのだ.
いやそうではない.
老人は、痛くて苦しくて不快で不安で、とにかくそれから逃れたいのだ.
それが「生きること」だと言うなら、生などもうまっぴらなのだ.
まっとうに生きるかではなく、まっとうに死ねるか、という問いに、医療も介護も、そしらぬ顔をする.
今はなぜ、死んだと言わずに「心肺停止」と言うのか.
巨大な権力と化した医療の前で、もはや我々老人に「お迎え」など、やって来ない.

現代人は、人間ドックの数値を見なければ自分の健康がわからない.
健康であるか病気であるか判断するのは、病院である.
停電で呼吸装置が止まったら即死、というこの映画の主人公は、医療がないと生きていけない現代人そのものを体現している.
ヒトは、生きるべくして生き、死すべくして死ぬ、のではなく、生きたいと願い、それを支える医療が維持できれば生きられる、という地平を切り開いた.
問題の核心は、「生」でも「死」でもなく、「医療技術」なのだ.

以前に「殺人者の記憶法」(2017)という韓国映画を観た.
アルツハイマー症の連続殺人鬼という話である.
主人公は、誰を殺したのか、誰を殺そうとしているのか、ふいと思い出せなくなる.
見ようによっては喜劇なのだが、記憶を失えば人間でなくなる、と思っている主人公(ソル・ギョング)は、暗い顔をしている.
しかし、人生はなんでもありなのだ、と、我ら老人には開放感があった.
ハンディキャップを負った人だれもが、善良で心優しい人間であるとは限るまい.
いいヤツも悪いヤツもいるのだ.
車椅子の弁護士がいるのなら、車椅子の殺人鬼がいてもおかしくない.

私は、この映画の大泉洋が、自己チューで嫌なヤツだったらどうだろう、と妄想した.
それでも、現代の医療・介護制度は、この男が生きることを支えるだろう.
さらに、大泉洋が、実は凶悪な殺人犯だったらどうだろう.
「羊たちの沈黙」のレクター博士のように、狡知にたけた言葉で人を追いつめ、殺すのである.
もちろん、最後は逮捕され、裁判にかけられ、死刑になる.

人間だけが、「命の選別」をする.


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