錆びたナイフ

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2020年6月26日
[本]

「経済学・哲学草稿」 マルクス


「経済学・哲学草稿」



昔は「経・哲手稿」と呼んでいた.
人間と社会の関わりを、ヘーゲル哲学から説き起こし、19世紀の国民経済学者をなぎ倒し、マルクスは人間の真の開放を目指す.
欠落した原文もあって、全体の構成はかなり荒っぽいが、文章はわかりやすく、経済学と哲学を人間の地平から論じて、エネルギーに満ちている.

アダム・スミス、リカード、ミルといった国民経済学派の理論を列記した前半部分は、現代の社会から見れば疑問が多い.
産業革命以降の英国労働者の状況が、いかに悲惨だったかということだろう.
マルクスはかなり腹を立てていて、労働と資本の根本が分かっていない国民経済学には、社会問題を解決する力はない、と断定している.

「疎外」という話がでてくる.
人間の労働とその生産物が、労働者を「疎外」する.
「疎外」とは「のけものにすること」だが、言葉の元はヘーゲルである.
『物は端的に「役に立つもの」であり、実用性の面からのみ考察される。「自己疎外された精神の世界」を遍歴する、教養ある自己意識は、自分を外化することによって物を自分自身として産出し、物のうちに自分を保持し、物が自立した存在ではなく、本質的に他のための存在でしかないことを知っている』(ヘーゲル「精神現象学」)
『(ヘーゲルの偉大な点は、)人間の自己生産を一つの過程としてとらえたこと、対象化の働きを対象から離反する外化の過程として、さらには、この外化の克服としてとらえたことにある。つまり、かれは労働の本質をとらえたのであり、対象的な人間を・・当人自身の労働の結果として概念的にとらえたのだ』(マルクス)
科学的唯物論の嚆矢であるマルクスが、「物は自立した存在ではない」というところから出発しているのがおもしろい.

収穫したリンゴは、手にとるとすべすべしていて、噛むとすっぱい、食べれば無くなる.
「存在」は、自己との関係で動的に変化する.
人間は、自然に働きかけることによって生き、それによって、人間でありうる.
人間が自然に働きかけた対象から疎外されるのは、人間の世界認識にとって必然的なことなのだが、マルクスは「労働の疎外」は良くないと言う.
『人間はまさしく(動物と違って)類的存在であることによって、意識的な存在であり、みずからの生活を対象とする存在である。だからこそ、その活動は自由な活動なのだ。この関係が、疎外された労働によってくつがえされると、人間は、まさしく意識的な存在であるがゆえに、かえって、生命活動というおのれの本質を、たんなる生存のための手段にしてしまう』
近代の労働者は奴隷と同じで、単に飢えないために働いているのであり、自己実現のための本来の労働ではない、という.
「労働」が自分のためでなく「他人に属する」のがその原因だと、マルクスは言うが、
それが領主であろうが仲間であろうが家族であろうが、人間が、自分のためだけではなく、他人のために働くというのは普通のことだ.
集団で生きる人類は、数百万年前からそうしてきた.
いや、搾取や抑圧の根元は、労働者が資本家に雇われることにある、というなら、マルクスは、現代のサラリーマン(=賃金労働者)もすべからく「資本家の奴隷だ」と言うだろうか.
その意味はわからなくもないが、ならば「奴隷ではない労働者」はどこにいるのか.
かつてソビエト連邦と中華人民共和国は、地主も資本家も貴族も追い出して労働者だけの国を作ったが、結局政治的独裁者と官僚が人民を抑圧し、一世紀もたたずに社会主義体制は崩壊した.
資本主義社会の「労働基本法」や「独占禁止法」のほうが、結局、労働者を解放しえたのか.
『労働の生産と資本の生産というこの対立が極限まで突きすすむと、関係のあり方全体が頂点に登りつめるとともに、必然的に没落が始まるのである』
資本も労働者も、決して「没落」しなかった.

「私有財産」という話がでてくる.
『土地所有が私有財産の土台である』
マルクスは、封建領主と農奴のような牧歌的な関係は、産業資本主義の雇主と労働者の関係にやがて呑み込まれる、とみている.
『すべての富は産業的な富----労働の富----となる。産業こそは労働の完成形であって、工場制度は産業の、つまり労働の、成熟したありさまであり、産業資本は私有財産の完成した客観的な形態である』
「工場制度は労働の成熟したありさまだ」というのが、マルクスの時代が到達した資本主義の最高のありようだった.
現代日本の、農業/工場を含む第一次/二次産業の割合は、3割に満たない.
産業の7割以上は、いわゆるサービス業の三次産業である.
今どき、自宅から「リモート」で仕事をする人間にとって、パソコンは拡張された自然であり、データを処理するとは、自然(=社会)の持つ情報(=エントロピー)を意図的に変更する労働をしている、ということになる.
ロボットが働く工場を見たらマルクスは「機械が機械を疎外している」と言うだろうか!?

『かくて、すべての肉体的・精神的な感覚に代わって、すべての感覚を単純に疎外したところになりたつ「所有」の感覚が登場してくる。人間は、自分の内面的な富を自分の外へと産み出すために、所有の感覚という絶対的貧困へと追いこまれざるをえなかったのだ。
 したがって、私有財産の廃棄は人間のすべての感覚と特性の全面的な解放である』
『賃金は疎外された労働から直接に出てくるものであり、疎外された労働は私有財産の直接の原因である。二つは同じ楯の両面なのだ』
「所有は絶対的貧困」だという.
ふと、方丈小屋に住まって世間を捨てた、鴨長明を思い出した.
産業革命以前の人間の労働に私有財産はない、ということなら、マルクスのいう「私有財産」とは、単に自分の家とか自分の所有物をいうのではない.
「金銭で交換可能になったもの」を、そう呼ぶのだ.
「労働」を賃金で買えるということは、労働力ひいては労働者自身が「商品」と化すことを意味している.
そこでは、奴隷が売買されたのと同じことが起こる.

『私有財産の積極的な廃棄による人間的な生活の獲得は、すべての疎外の積極的な廃棄であり、人間が宗教、家族、国家、等々から解放されて、人間的な----つまり、社会的な----存在へと還っていくことだ』
『私有財産の立場からすれば、所有を直接に体でもって実現するこうしたすべての行為は、生活の手段にすぎない。そういう行為を手段としてなりたっている生活とは、私有財産の支配下にある生活であり、労働と資本化にもとづく生活である』
しかし「私有財産の支配下にない世界」を、過去ではなく、未来に作りだすとしたら、それはいったいどんな世界か.
1958年、毛沢東の「大躍進政策」の中で、人民公社は意図通りに機能せず、農業生産は激減し大量の餓死者を生んだ.
復活した鄧小平は、人民に一部の私有財産を認めることで、中国4千年の歴史上はじめて飢餓を克服した.
人民公社も、ソ連のコルホーズもソフォーズも、うまくいかない.
マルクスに言わせれば、「私有財産の廃棄」とは、たとえば土地や生産物を「共同のもの」にするとういうことではない.
「共産主義」は、『自己疎外の根本因たる私有財産を積極的に破棄する試みであり、人間の力を通じて、人間のために、人間の本質をわがものとするような試みである』
こうして「人間」を連発する思想は、あやうい.
「人間」は既知のものではなく、「人間の本質」は、変化するからである.

300年前にルソーが、人間の堕落のきっかけは「私有財産」の登場であるとみなしたが、マルクスのいう私有財産は、あくまで資本主義が生みだしたものだ.
たぶんマルクスが熱望したのは、労働を、金銭で交換可能なものにするな、ということなのだ.
それは、世襲制に帰れとか、ギルドや家内制手工業に戻せ、というのではない.
資本主義の発生は歴史の必然であり、後戻りすることはない.
マルクスは、労働の疎外と矛盾は「止揚」されるべきものとして、つまり新たなものへ変化する契機として、とらえたのだろう.
彼は、分業や機械化が、労働者から利益を吸いあげる手段になっていると主張したが、科学や技術の進歩を否定はしなかった.
『産業の生みだした自然こそが、疎外された形を取ってはいても、真の人間的な自然なのだ』
私はその通りだと思うが、現代人は必ずしも納得しないだろう.
核兵器も自然だといわれれば、身も蓋もない.

マルクスは、観念の人ヘーゲルと違って「実践の人」だ.
人間の問題は、神ではなく、人間が解決する.
人間の問題は、人間ではなく、科学が解決する.
マルクスは、社会主義や共産主義の実現を目標としたのではなく、「国家の廃棄」を夢みたのではないだろうか.
「国家」は、人間が産み出した最大の疎外物だ.
マルクスから二世紀を経たこの世界には「国民国家」しか存在しない.
いやそうではない、世界規模の情報企業「GAFA」が、「国家を廃棄」する道をつき進んでいる.
「私有財産の破棄」は、マルクスが考えもしなかった方法で、実現するだろう.

資本主義とは、金もうけがすべてという世界のことではなく、人間の欲望を組織化するという世界である.
資本主義は人間の本質と等価だ.
だからNHKの「欲望の資本主義」という番組は、ピントがずれている.
欲望が資本主義を産んだのではない、資本主義が欲望を、すなわち人間を、産んだのである.
人間は、ユダヤ/キリスト教が、神の似姿として産み出し、産業革命が、欲望のかたちに脱皮させた.
21世紀の科学技術はさらに、人間を脱人間化するだろう.
やがて、人間が人間をやめる時がくる.
そのとき、資本主義は消滅する.

『お金は人類の能力が疎外されたものだ』とマルクスがいうなら、
貨幣は、銀行のコンピュータの、とあるビット列が疎外されたものである.
人間は、SNSの「いいね」が疎外したもの、である.
「情報」とは、世界が疎外した「人間」のことである.
『人間と人間との直接的で、自然で、必然的な関係が、女にたいする男の関係だ』とマルクスがいうなら、
人間の最後の階級闘争は、男と女の闘争である.


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