錆びたナイフ

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2020年3月17日
[映画と本]

「沈黙 -サイレンス-」 2016 マーティン・スコセッシ
「沈黙」 遠藤周作


「沈黙 -サイレンス-」

「沈黙」



フランシスコ・ザビエルが渡来したのは1549年、はるか極東の信者たちの存在は、西欧のカトリック教会にとって大きな成功例であり希望だった.
それから半世紀ほど後の話である.
ポルトガルの若い神父ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライヴァー)は、彼らの師であったフェレイラ神父(リーアム・ニーソン)が、日本で棄教したという噂を聞いて、矢も盾もたまらず日本へ向かう.
彼らはマカオで出会ったキチジロー(窪塚洋介)とともに、たどり着いた長崎の村で隠れキリシタンたちに会う.
この時期日本では、キリスト教の信者も司祭も、苛烈な弾圧のもとにあった.

スコセッシの映像は見事で、時代劇としてもまったく違和感はない.
興味深かったのは映画の言語で、
役人の井上筑後守(ちくごのかみ)(イッセー尾形)も、通辞(浅野忠信)も、「じいさま」と呼ばれる村長(笈田ヨシ)も、ポルトガル語の代わりに英語を喋る.
ただし、パードレ(司祭)、パライソ(天国)といった単語はそのまま残っている.
語彙はシンプルだが、筑後守とロドリゴが、英語で宗教論を闘わせるというのが面白い.

ロドリゴたちが出会った隠れ切支丹たちは、みな貧しかった.
自分たちで見よう見まねのミサをしていた彼らが、ロドリゴたちに出会った喜びは大きかった.
キリシタンをあぶりだす役人のやり方は巧妙で、「踏み絵」を踏んだときの表情をみている.
さらに「マリアの母子像」に唾をかけ暴言を吐けと言われて、信者はついにそれができない.
彼らはみせしめのために、残酷な刑罰で処刑される.
しかしそれはいくらやってもきりがないと、役人たちは気づいたのである.
そもそも信者たちがあがめるのは、十字架にはりつけにされ無残に殺された、あのキリスト像である.
人間の酷薄を愛へと転倒するのがこの宗教の真価なのだから、弾圧すればするほど、彼らの信念は強くなる.

キチジローの裏切りで、ロドリゴは役人に捕らえられる.
ガルペも捕らえられ、海に突き落とされる信者を見ていてもたってもいられず、海に飛び込んで死ぬ.
役人の目的は、信者を殺すことではない.
信心を一掃することである.
二度と復活しないように、弾圧は、執拗に、徹底して、しかも考え抜かれている.
役人たちはだれも鬼のような人間かというと、そうではない.
筑後守も通辞も、話せばわかるという態度をとる.
役人に連れてこられた長崎の町で、ロドリゴの前にフェレイラが現れる.
彼は沢野忠庵と名乗り、この地でキリスト教は育たないという.
それは、筑後守が言うのと同じだ.
ロドリゴは、かつてザビエル神父のもとに30万人の信者がいたと反論する.
フェレイラは言う、
『日本人が信じたのは歪んだ福音だ、彼らは自然の内にしか神を見だせない
 我々は人の本性を日本で見いだしたのだよ、たぶん それが 神を見つけることだ』と.

カトリックは、洗礼や告解やミサを、厳格なヒエラルキーと戒律の基で実施している.
信者だけで信仰は維持できないのである.
だからこそ日本にいる信者を救うべく、危険を犯してロドリゴたちはこの地にやってきた.
司祭が棄教すれば、やがて日本の信者はいなくなると、筑後守は考えている.
筑後守も通辞も、転び切支丹である.
出会った宣教師たちはみな日本人を侮蔑していたと、通辞は言う.
だからこの男は、ロドリゴの苦境をもてあそんでいる.
筑後守、この男は心底、日本にキリスト教は根付かない、と思っている.
この一見頼りなげにみえる老役人が、この物語の影の主人公だ.
彼は、ロドリゴがやがて「転ぶ」ことを見抜いている.

ロドリゴの棄教は、激しい苦悩と絶望の先にやってくる.
穴吊りという拷問で、何日もうめき続ける信者たちの前で、
彼らが苦しんでいるのは、神のためではない、ロドリゴ、お前のためだ.
お前が棄教すれば、あの信者たちが救われる.
お前には慈悲の心がないのか.
そして、お前の神は、苦しむ信者をみて、なぜ沈黙しているのか.
熱い宗教的使命感と若い正義感に燃えてこの地へやってきた、ロドリゴの心が、ちぎれる.
筑後守は、司祭たちの信者への愛を逆手にとって、彼の信念と良心をねじ伏せた.
いや、ロドリゴに「わたしを踏め」と告げたのは、筑後守でもフェレイラでもない、イエスである.

カトリシズムは、神の御徴(みしるし)として、教会をはじめとして膨大な「アイコン」(象徴)をもっている.
結局その「アイコン」のひとつが「踏み絵」なのではないか.
神と直接対話しようとするプロテスタントであったら、この物語は成立しないのではないか、と私は妄想する.
ユダヤ教もイスラム教も、戒律を守れば現世での至福を約束した.
キリスト教は違う.
「姦淫するなかれ」を「情欲を抱いて女を見る」だけでもダメだ、と説いたのはイエスである.
信仰が「心の中」の問題であるのなら、「踏み絵」という行為は、信仰の有無を問うのではなく、たんなる”エチケット”の問題ではないか.
人間の真価は天国へ行けるかどうかであり、この世の不条理はこの世では解決しない、と言ったのもイエスである.
この世を厭(いと)い、死ぬのが怖くないという人間ほど扱いにくいものはない.
この極東の地で布教し弾圧されたこの物語そのものが、カトリシズムの裏返しのように、私には思える.

キチジローは、何度も「転び」何度も司祭を裏切り、それでもロドリゴにまとわりつき、自分は弱い人間だと泣いてわめいて許しを求めた.
ロドリゴはこの卑劣でいじましい男を嫌い、主はこのような人間も許し愛せよと言うのか、と苛立つ.
物語の中でキチジローは「イスカリオテのユダ」に比せられている.
遠藤周作はその著作『イエスの生涯』の中で、使徒たちは、イエスが死ぬことによって、はっきり目覚めたのだと解釈している.
そこから、新約という名の「神の子」の物語がはじまった.
ユダは、キリスト教に必須のトリックスターである.

波が打ち寄せる十字架にさらされたモキチ(塚本晋也)は、か細い声で賛美歌を歌い、やがて絶命した.
モキチにとって、この世で生を受けるとは何だったのか.
宗教は喜びだったのか、苦難を超える力だったのか、あるいは単に苦難を呼びよせただけだったのか.
モキチのような強い信仰心を持てなかったキチジローにも、苦悩はあった.
私は切支丹だ私を牢に入れてくれと、ロドリゴのいる牢の前で叫ぶキチジローは、牢番に追い返される.
この懲りない男は江戸にまでついてきて、ロドリゴと暮らし、彼をパードレと呼んだが、ロドリゴは二度と神の名を口にしなかった.

ロドリゴが心に浮かべるイエスの顔は、小説とちがう、エル・グレコの絵のように、面長でどこか東方民族の憂いを秘めている.
神は沈黙していない、最も苦しんだものとともにいる、というのが遠藤周作の確信である.
映画は、棄教したロドリゴが、江戸で妻帯し、やがで死んで日本人と同じく火葬されるところで終わっている.
早桶の中の彼の掌には、「じいさま」にもらった小さな木彫りの十字架が握られていた.
カトリック教会は、信仰は弱さではなく強さであると考えているから、ロドリゴやフェレイラがしたことを認めないだろう.


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