錆びたナイフ

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2020年2月26日
[映画]

「緋牡丹博徒 お命戴きます」 1971 加藤泰


「緋牡丹博徒 お命戴きます」



「娘盛りを渡世にかけて・・」
藤純子「緋牡丹のお竜」シリーズ七作目.
頃は明治、お竜は旅先の上州で地元のヤクザ・結城(鶴田浩二 )にであう.
銅鉱山の廃液と煙で作物が育たず、農民は結城と共に工場に対策を要求しているが、工場長(内田朝雄)は応じようとしない.

日露戦争前、国中が富国強兵に邁進していた時代.
警察は不満を言う農民を弾圧する.
ワルモノは、工場長とそれに結託する軍人(大木実)、彼らの裏で画策する富岡組々長(河津清三郎).
実は、本社が出した農民のための補償金は、この三人が横領している.
そもそも誰にも、鉱毒を解消する、という発想はない.
ヤクザ映画の中で「近代化」は「悪」である.
だから古参のヤクザは「善」で、新興ヤクザは「悪」ということになっている.

結城の家で、その子供に慕われるお竜.
きれいでやさしいおばちゃん.
お竜は何を夢見たのか.
結城が富岡の手下に殺される.

ヤクザ映画は、善人も悪人も、こうあらねばならぬという生き様にがんじがらめになっていて、みんな自滅してゆく.
話の中では、高崎の大親分(嵐寛寿郎)とか陸軍大臣(石山健二郎)とか、貫禄のある大人物が登場して、ときに主人公を救ってくれる.
彼らにはまっとうな話が通じる、ただし「問題」が解決できるわけではない.
この映画にとって問題は「鉱毒事件」ではなく、ワルモノがこの世にいる、ということである.
この話も、お竜が陸軍大臣に窮状を直訴したことから、横領が発覚するのを恐れた富岡は、その後なりふり構わずやり口がどんどん凶悪になる.
あ〜ぁそこまでやるか?、もっとコソコソ悪事を働いたら、お竜を怒らせずに済んだのに.

農民とともに圧政者の横暴に泣いて耐えて、最後はお竜、喪服姿の立ち回り.
横笛に仕込んだ刃がきらめき、簪(かんざし)を引き抜いて黒髪が舞い上がる.
男たちを次々と殺してゆくお竜の、きりりとした眼差し.

この監督の演出は、ローアングル・長回し.
時にあれ?というようなカメラアングルがあるのがおもしろい.
プロの熱意が粘り強く烈しい映像を作りあげた.
がんじがらめの美学.

目だけのドアップシーンもある.
この時代の藤純子は、「うつくしい」といえばそのとおり.
目鼻立ちのくっきりした、芯の強さと可憐さと妖艶を合わせもった女優で、この美女をアウトローで人殺しに仕立てたのは、東映映画人の隻眼.
ヤクザに殺されるところをお竜に救われた博徒・コブ安(汐路章)は、お竜に、あなたはきれいだと言う.
そういうことを言う男は、物語の中で死ぬのである.
コブ安のように、お竜のために奔走して富岡に惨殺されるのも、お竜の刃に刺されて倒れるのも、同じこと.
このヒロインに魅せられたのは、映画の観客だけではない.
焦がれて命を落とした登場人物の死屍累々.
テーマソングでしきりに「女の、女の・・」と歌っているくせに、
何作目だったか、「あたいは、女じゃなかと、男たい!」と言い放った.
こんな女に心底憎まれて、「あんさん、死んでもらいますばい」と言われた男たちの至福よ.
矢野竜子、到底まっとうな幸せにはなれぬ.

悪の巨魁富岡を倒したお竜、駆け寄ろうとする子供を止める、その、血に染まった手.
善悪両ヤクザも、工場長も軍人も、死んだ.
その後、農民たちはどうなったのか.
彼女は何を倒したのか.
びくともしない日本国家が、銅鉱山の背後にそびえている.

70年代の映画を浴びるほど観た.
私の映画の基準は、良くも悪くもこういう作品の中にしかない.


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