錆びたナイフ

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2020年1月30日
[本]

「進化の意外な順序」 アントニオ・ダマシオ


「進化の意外な順序」



著者が「意外な順序」というのは、生物の進化に「感情」が大きな影響を与えているという意味のようだ.
「感情」を「感覚」と言いかえたら、どんな生物にもあてはまるだろうが、
「感情」は「心」とは何かというテーマに結びついている.

ダマシオの文章はとても読みづらい.
特に、抽象的な話を延々と連ねた導入部は、教科書を読むような味気なさでげんなりする.
中盤以降、話が多少具体的になって面白くなる.

『感情とはホメオスタシスの心的な代理である』と著者はいう.
「ホメオスタシス」とは「恒常性の維持」と訳されたりするが、ダマシオによれば『何があっても生存し未来に向かおうとする、思考や意思を欠いた欲求を実現するために必要な、連携しながら作用するもろもろのプロセスの集合』ということになる.
それは、要するに生きようとする意志であり、すべての生物が持っている、あるいは支配されている「法則」だとみなされている.
ダマシオの発想の基本はこの「ホメオスタシス」である.
『感情は生物が神経系を備えるようになってから出現したのであって、その起源は、生命の誕生よりはるかに最近の、およそ六億年前に求められる』
つまり三葉虫は感情を持っていたということだ.

人間の感覚は、目耳皮膚等をとおして体外からやってくるものと、内臓等体内からくるもの、同じく筋骨格等からくるものの3種類がある.
それらの感覚シグナルは、神経装置によって「イメージ」を生成し、相互に序列や配置の「マップ」を構築している.
この進化の過程で、生物は、神経系を取り巻く世界の、独自の表象を形成できるようになった.
心的なイメージに対する視点の構築と、イメージにともなう感情は、主観性を生み出す.
心が主観的な観点を獲得すると、意識が生まれる.
『心が存在しなければ意識も生じ得ない』とダマシオはいう.
身体の外からやってくる光や匂いや触覚、内臓が発する消化器や内分泌系のコンディション、筋肉や平衡感覚が発する自分の状態把握が、心というイメージを通して意識を生成する.
「意識」は脳に存在するのではない、身体からやってくるのである.
生物に関する著作で、このように順序立てた明快な「心」の記述を、私は他に知らない.

『私たちの意識ある心を支配する感情のコンテンツのほとんどは、内臓の活動と対応しており、それにはたとえば、気管、気管支、消化管、さらには皮膚や内臓腔の無数の血管のような管状組織の壁面をなす平滑筋の、さまざまな強度による収縮や弛緩などがあげられる』
私の知る限りで、「心とは内臓の発する声である」と見抜いていたのは解剖学者の三木成夫である.
西原克成はそれを発展させ、心は、身体の三つの部位に分けられると述べた.
心から貴方を愛しますというとき、その思いのありかは胸、つまり肺と心臓である.
腹黒い、断腸の思い、肝が座っている、というのは、腸・胃・肝臓・膵臓など腹にある臓器が基になっている.
「切腹」とは、単に自死することではない「腹を割って話す」ことの極限の喩なのである.
そして下半身がうずく、というのはもちろん性的な心の場所を語っている.
腸が第二の脳であるという最近の医学の知見は、昔の人々にはとうにわかっていた話で、意識も心もすべて脳内にあるという学者を、私は「脳バカ」と呼んでいる.
もちろんダマシオはそうではない.
『主観性の構成要素である視点や感情、経験の統合という、意識のすべての必要条件を満たす、ただ一つの脳領域、あるいは脳システムなど存在しない』
ただし『視点の措定、感情、経験の統合という、ここまで論じてきたプロセスの主たる構成要素の生成に間違いなく関与している、脳のいくつかの領域やシステムを特定することは可能である』
ここが現代の脳科学の限界である.

生物は、目や耳や皮膚を通して外界からの刺激を受け取り、外の世界のイメージを作り出し、同様に、体の内部にある器官からの刺激も、イメージとして受けとる.
ダマシオはこの、感情のもとになる「イメージが作りだされる」ということが重要だと強調する.
太陽は暖かい、クマは大きくて黒い、といった、単に触覚や視覚の刺激に反応したのではない、刺激の元になるものをイメージとして「認識する」ことは、それが普遍性や抽象性をもつことを意味する.
写真に知人が写っているのを見れば、ひとはその知人の名前や声までも思い出す.
ダマシオは、「認識する」ということを「イメージの生成」と呼んでいるが、
例えば、単なる色点の集まりに過ぎない写真から知人を想起することは、簡単なことではない.
生物の中で、絵や写真が「わかる」のは人間だけである.
この最も不可思議な意識の深淵を、著者は素通りしている.

『私は、文化の構築という人間の営為を、その種のホメオスタシスの現われとしてとらえている』
『複雑な生物では、選択(自然淘汰)は文化的なものになり、主観に導かれた創意によって生み出されたオプションがその対象になった。複雑さのレベルはさまざまだが、生存、繁栄、生殖の可能性という基本的なホメオスタシスの暗黙の目的は変わらない』
ホメオスタシスはその目的のために、他者の利益を尊重するという宗教的/社会的仕組みを生み出し、個体を超えた人類への拡張を果たしたと、ダマシオはいう.
しかし『ホメオスタシスは自然選択の背後にある価値基準である』という、「価値基準」とはなんのことか.
『思考や意思を欠いた欲求を実現する』にすぎない「ホメオスタシス」という「法則」が、どうやって目的に沿った社会的組織や機能を生み出せるのか.
それは自然淘汰による、と著者は主張する.
ホメオスタシスにとって結果的にうまくいった考え方や指向性が、生き残ったのだという.
これは単なる「結果論」である.
川が上流から下流へ流れるのは重力のせいだが、川の流れが重力を生み出すわけではない.
「ホメオスタシス」は原因ではなく、「結果」ではないのか.

生きているものにはあり、死んだものにはないもの.
この書に「魂」という言葉はない.
多分著者は、「身体に宿るもの」という発想をしたくないのだ.
ダマシオは神経科学者の断固とした知見の上で、「ホメオスタシス」は生物が基本的に持っている「機能」だ、と考えている.
それはほんとうだろうか.
生物が生き抜くチカラを「ホメオスタシス」と呼ぶなら、生物はなぜ死ぬのか.
ダマシオは、死がホメオスタシスの終わりであるとも、子孫を残すことがホメオスタシスの目的であるともいう.
これは「法則」としては矛盾している.
さらに、人間が自殺する生物であることを、ホメオスタシスは説明できない.

個体は生命をどのように維持するのか、それは細胞レベルの死と再生を繰り返すことで実現している.
細胞の生と死をくりかえし、個体の誕生と死をくりかえし、ひとつの生物「種」もやがて絶滅する.
これらをつらぬいてホメオスタシスという法則があるのだとしたら、ホメオスタシスは最初から、個体の死を忌避する気などなく、高々、個々の生を一瞬謳歌することしか望んでいない.
生物の生きるチカラは、ダマシオが夢見たものより、はるかに強烈で不条理ではないのか.
『不快感は、生命活動の調節がうまくいっていないことを示す。快い感情は、ホメオスタシスが有効な範囲に収まっていることを示す』
これは、「子供」や「赤ん坊」の話だろう.
犬も猫も子供も、病院には行きたがらない.
人間の大人が病院に行くのは、病気や怪我をほうっておけばもっと悪くなる、治療を我慢すればあとは楽になると、知識と経験を基に判断するからである.
ホメオスタシスに無条件に依存していない生物こそ、人間の大人である.

著者は終盤で、しきりに「文化的な危機」を訴えている.
世界の人口は増加の一途なのだから、人類はうまくやっていると、私なら思うのだが、
リベラルな著者は、グローバリズムや人工知能や、現代社会の不安な状況をあれもこれもと挙げてみせる.
感情が文化と社会を産み、それが人間の繁栄を支えるというダマシオは、どこかでボタンの掛け違いをしている.
個人と家族と国家は、それぞれ位相のちがう「イメージ」で成立している.
固有の人間の持つ機能や発想が、そのまま人間集団に拡張されるわけではない.
(とある模様の)「布切れ」を「国旗」とみなすことは、ホメオスタシスで説明できない.
単に人間が集まったもの、ではない、個人と家族と国家は、別のものである.
ダマシオは、ホメオスタシス→感情→心→文化→社会→国家の生成までを一直線にとらえている.
著者の戸惑いと勘違いは、そこから生まれている.

こと人間とその社会に関して、ホメオスタシスという単純な原則は通用しない.
そして、現代人は、かつて「本能」と呼んだそれを、自らがもっているかどうかさえ、わからなくなっている.


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