錆びたナイフ

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2019年12月25日
[本]

「自然と象徴」/「色彩論」 ゲーテ


「自然と象徴」


18〜19世紀の学者ゲーテの自然科学論である.
『自然と象徴』は、「自然観」「方法論」「形態学」「色彩論」に関する、詩や書簡等を含めたアンソロジーになっている.
『色彩論』は500ページを超える大著で、これは十年前に読んだ.

どちらの本もわずかに図があるものの、数式や表はまったくなく、定性的な記述だけで自然を論じようとしている.
ゲーテ自身が、数学を尊重しながらも、自分はそれを用いないと宣言している.

植物が生長し、昆虫が変態し、鉱物の結晶ができる、自然の変身能力を、ゲーテは「メタモルフォーゼ」と呼んでいる.
ゲーテは、その自然の変化の中に「根本現象」を見ようとする.
自然の力は、磁力や電気の物質的な両極性の力と、より「高い志向」とより「高い任務」を秘めて自ら完成させようとする精神的な力からなっている、とゲーテは言う.
だからゲーテの色彩は、例えば黄色がプラスで、青がマイナスと分類される.
当然、黄と青とはひきつけあい、『黄と青が高昇すると赤になり、・・低次なところで混合すれば緑になる』という.
『その(自然の)神性に触れるためには、人間は至高の理性にまで身を高めることができなければなりません。神性は自然界においても精神界においても、根本現象のなかに開示されます。神性は根本現象の背後に潜み、根本現象は神性から発しているのです』
ゲーテの発想は「自然」=「神性」賛歌なのだ.

植物は花も実も種も『すべては葉である』とか『頭蓋は椎骨(脊椎)からできている』とか、今の生物学から見ればずいぶん乱暴な理論なのだが、18世紀は産業革命の時代である.
蒸気と電気の力を得た人間は、世界の秘密がなにもかもわかってきたという、高揚感に満ちた時代だった.
世界には肌の色の異なる人種がいるという知識を踏まえて、ゲーテは、人類がすべてアダムとイヴの子孫ではありえないと考えている.
さらに『動物は環境によって、環境に対してつくられるのであって、動物の内的完全性と外に対する合目的性はこの点に由来している』という.
ダーウィンが進化論を発表するのは、ゲーテの死の27年後である.
一方でゲーテは『オオナマケモノという巨大で怪異な動物』は「無能力」で、その対極として「人間は完全である」とみなしている.
だから人間以外の動物は、何かが欠けている.
これは、ダーウィンの考えとはちがう.
彼が信奉した「神性」は、イエス・キリストでもその父でもない、世界を動的に創造しつつある「汎神」である.

『電気とかガルヴァーニ電気現象が 磁気現象という特殊性を凌駕する普遍性をもっているとすれば、色彩は、たとえ電気や磁気と同一の法則に従っているにせよ、電気や磁気の問題とは比較にならない重要さをもっているし、また眼という高貴な感官に作用するものであるために、その本性を見てとりやすい という利点を有している』
カエルの脚に電気を流すと筋肉が動く、ということをゲーテは知っていて、生命を含めたこの世界の根底に、電磁気現象が介在しているということを予兆しながらも、人間の直感の優位性を固守している.
マクスウェルの電磁気学方程式は、ゲーテ没後32年に現れた.
光は電磁波の一部であると言えば、ゲーテは驚くだろうか.
ゲーテは、ニュートン光学は間違っていると断じたが、科学界からはまったく相手にされなかった.
『あらゆる事実がすでに理論であると知ることこそ最上のことであろう。空の青は、われわれに色彩論の根本法則を開示してくれている。現象の背後に何も探してはならない。現象自体が学説なのだ』
科学者の出る幕はない、のである.

ニュートン光学で言えば、赤は、赤以外の光をすべて吸収するものであり、黒は、全ての光を吸収し何も発しないものということになる.
しかし我々には、赤いクレヨンと同じく、そこに黒色のクレヨンが「ある」と見える.
『色彩論は、本来光学と全く切り離して考察できるものなのに、計測法を不可欠なものとする光学、色彩論とは異る光学と、混同されてしまった』
『光から色彩を取り出せるなどと思い上ってはいない』
『むしろ光と光に対立している闇が両々相侯ってこそ色彩が生み出されるということを、無数の事例を通じて証明しようとするのがわれわれの理論である』
ゲーテはニュートンのプリズム実験を正しく理解できていないのだが、要するに色彩は、人間が認識する自然そのものだと言いたいのだ.
現代流の言い方をすれば、「赤」とは「赤いというクオリア」であり、特定の周波数の電磁波を赤色と呼ぶというのは説明になっていない.
色とは「測定」するものではなく、「体験」するものであり、色彩とは、自然の「主張」なのだ.

ゲーテの書は、科学者ではなく芸術家のためにあり、あえて言えば生理学や心理学上の優れた洞察で成り立っている.
読んでいて、どこかで聞いたような声、例えば日本の生物学者・今西錦司を思い出す.
全体を見よ、自然に帰れ、という声である.

自然が分子や原子や電磁気力で成り立っているという近代科学の対極で、ゲーテは、高貴、理性、美、精神、調和、尊厳、という言葉を使う.
この書の表題「自然と象徴」の「象徴」とは、文化や芸術の象徴というだけでなく、科学の数式やデータもまた「象徴」であると、私は思う.
『真紅が尊厳を示す』と言うなら、ニュートンの万有引力方程式もまた「天体の尊厳」を現わさなくてなんであろう.
私は虹を見るたびに『虹には、深紅色が欠けている』というゲーテの言葉を思い出す.

この書には、ときにはっとするような哲学的跳躍がある.
『動物が自分の四肢を好きなように使いこなすことができるという概念をあたえてくれるとき、われわれはこの動物を美しいと呼ぶ・・・美が感じられるのは、じつは力を伴った静けさ、能力を伴った無為が見られる場合であると言えよう』
「能力を伴った無為」とは「実存」のことである.
『色彩は光の「行為」であり、「受苦」である。・・・色彩と光とはなるほど切っても切れない関係にあるが、しかしわれわれはこの両者が全き自然にも属していると考えなければならない。というのも、色彩と光を通して眼という感覚に自分の姿を特に示現しようとしているものこそ、自然にほかならないからである』
自然とは、人間に「開示」されたそのもののことである.

ゲーテがニュートン光学に入れた半畳は、DNA鑑定で否定されても親子である、と主張するのに似ている.
それは、家族とはなにかを真剣に問うた人間が、決めることなのだ.
ゲーテは、近代科学がはるかに旋回している自然認識の、その真ん中に立っている.

『もしもこの眼が太陽でなかったならば
 なぜに光を見ることができようか
 われらのなかに神の力がなかったならば
 聖なるものが なぜに心を惹きつけようか』


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