錆びたナイフ

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2019年11月24日
[映画と本]

「テス」 1979 ロマン・ポランスキー

「テス」

「テス」 トマス・ハーディ

「テス」



トマス・ハーディの小説の原題は『ダーバヴィルのテス』1891年(明治24年)作
冒頭、夕暮れの村で娘たちがダンスを踊るシーンから、ポランスキーの映画は、原作を忠実に再現している.
イギリスの農村で行商人をしている男ジョン(ジョン・コリン)が、ふとしたことから、自分が貴族ダーバヴィルの子孫であることを知る.
ジョンの家族は妻と子供5人で、とても貧しい.
ジョンとその妻は、長女で器量よしのテス(ナスターシャ・キンスキー)を、土地のダーバヴィル邸へ送り出す.
親戚だと言えばお屋敷で雇ってくれるか、あわよくば貴族と結婚できるかもしれない.
テスがそこで出会ったのがアレック(リー・ローソン).
この男、ダーバヴィルの家名を買い取った家主の息子で、口が達者で女たらし、さっそくテスを口説く.
おぼこなテスはジョンに籠絡され、情婦にされる.

キンスキー18歳.
このヒロインは少女のように、まだ自分の美しさを知らずに、大きな瞳であらぬ方を見ている.
そして、強い意志を持っている.
数ヶ月して、テスはわれに返ったように屋敷を逃げ出し、追ってきたアレックもきっぱり拒否する.
村へ帰ったテスはアレックの子供を産むが、赤ん坊はやがて死んでしまう.
テスは、赤ん坊に洗礼を施してくれるよう村の牧師に頼むが、断られる.
テスは、自分で作った墓に赤ん坊を葬る.
父も母もテスを責めたりしないが、世間は白い目で見る.
いかがわしい女だと.

テスは、自分が罪を犯したと思っている.
自分に罪があるから子供が天に召されてしまった、と思っている.
私生児を産んだことが「罪」なのだろうか.
自分の心にそむいて情婦になったこと、が「罪」なのか.
テスのこの気持ちは強固だが、いったい何に根ざしているのだろう.
作者ハーディはテスを、当時のキリスト教の道徳の圏外に置こうとしているようにみえる.

テスは酪農場に住み込んで乳搾りの仕事をする.
そこでエンジェル・クレア(ピーター・ファース)と出会う.
エンジェルは近隣の牧師の三男で、農業を学んでいる.
父のクレア牧師は厳格なキリスト教徒だが、エンジェルは自由奔放な異端児で、テスに惹かれる.
テスは寡黙であまり自分のことを語らない.
彼女は自分の過去を悔いていて、自分は妻にふさわしくないと考えているのだ.
農場で一緒に働いている3人の娘もエンジェルに夢中になる.
テスたちが教会に行くある日、道一杯の水溜りがあって、娘たちは晴れ着が汚れるのを躊躇していると、エンジェルがやってくる.
彼は、娘たちひとりひとりを抱きかかえて水溜りを渡る.
最後にテスが残る.
「土手をつたって歩けます」とテスが言うと、
「君のために他の3人を運んだ」とエンジェルが言う.
テスが渡り終わった時、3人の娘たちは、エンジェルが誰にもましてテスに好意をもっていると気づく.
思えばこの頃が、テスにとって一番幸せだった.

テスはエンジェルに「結婚はできない」と断り続けるが、男の熱意に一縷の望みを託して承諾する.
その告白は何度も行き違いがあって、新婚の初夜に、テスは自分の過去をエンジェルに話す.
エンジェルの態度が一変する.
「僕の愛した人じゃない、同じ姿をした別人だ」と言い出す.
「君の貞操観念の低さは、家が没落したせいだ」
世間の道徳や価値観から自由で、マルクスの「資本論」なんぞを読んでいたこの男の俗物根性が、いきなり顔を出す.
エンジェルはテスを置いて、ブラジルに旅立ってしまう.

夫から理不尽な仕打ちをされても、テスの信頼は揺るがなかった.
映画にはないシーンが小説にはある.
テスが告白した夜中に、エンジェルが夢遊病のようにテスを抱いて戸外に連れ出す.
「死んでる! 死んでる! かわいそうなテス」とつぶやいて、僧院の廃墟で石棺の中にテスを横たえる.
テスはなすがままにされるが、エンジェルは心の底では自分を愛しているのだと感じる.

離婚したわけではない、いつか夫が帰ってくることを信じて、テスのつらい日々がはじまる.
テスの実家は貧乏が続き、過酷な労働にあけくれる.
進退極まって、エンジェルの父に助けを求めようと、テスは教会の前まで出かけるが、声をかけられない.
テスの気高さと謙虚さが、事態を悪化させる.
寒々とした畑で延々とカブラを掘り出す作業、蒸気エンジンがうなりをあげる麦の脱穀作業.
ポランスキーは丹念に、産業革命当時の労働者の貧困がいかにすさまじかったかを描いている.
そして金の力が巨大な暴力となる.
テスの前にアレックがあらわれ、援助を申し出る.
テスは拒否する.
この時のキンスキーは、けなげでも強情でもない、孤独で絶望して、それでも意に沿わぬ男にはにべもない、という見事な表情をしている.
しかしこの男はあきらめない「僕は君の主人だった、また主人になる」「君が誰かの妻でも、君は僕のものだ」
「天にも地にも、地の下でも、あたしの願うのはただ一つ、あなたに、あたしのたいせつなあなたに、お目にかかりたいということだけ! 
 帰って来てください---お帰りになって、そして、あたしを脅かしてるものから、あたしを救ってください!」
悲鳴に近いテスの手紙にも、返事はこない.
かあいそうなテス.

ジョンが亡くなり、家を追い出されたテスの一家は、行くあてもなくキングスビアの地下墓地で一晩を明かす.
そこにはダーバヴィルの一族が眠っている.
テスは、どうして自分が死者ではないのか、とつぶやく.
これが一家のどん底だった.

数年後にエンジェルが英国に戻り、テスを探して、やっとめぐりあう.
美しいガウンをまとって別荘の階段を降りてきたテス.
「遅すぎたわ」
絶望して汽車に乗り込んだエンジェルのもとに、テスが駆け込んでくる.
アレックを殺した、と、夢のようにいう.
それから数日、エンジェルとの逃避行は、テスにとって静かな至福の日々だった.
もうアレックの影はない.
テスは、人を殺すことで、自由になった.
異教の石柱・ストーンヘンジで目覚めたテスは、官憲に捕縛される.
映画はここで終って、その後テスは処刑されたと字幕が出る.

「私と踊ってくれなかった」
酪農場でテスにそう言われるまで、エンジェルは忘れていたが、ふたりはかつて村の広場のダンスで出会っていた.
この話は、テスのエンジェルへの一途な愛の物語なのだ.
するとアレックは、テスの人生を狂わせただけの余計者だったのか.
アレックは傲慢で愚劣な男だが、悪辣というほどではない.
私は、むしろエンジェルのほうがつまらない人間だと思う.
テスと別れたあと、アレックは偶然エンジェルの父に出会い、自分の生き様を悔いて悔悛し、人々にキリストの福音を説いてまわる人間に変身したというくだりが、小説にはある.
ところがその旅先でテスに出くわし、そのとたんムラムラと欲情が復活し、アレックはあっという間に善行を捨て、テスにまとわりつくようになったのである.
テスがどれほど拒否しても振り切れなかったこの男は、いわばテスの影なのだと思う.
アレックはテスの肉体を支配したが、ただの一度もテスと心を共にすることはできなかった.
映画にも小説にもアレックの殺害シーンはないが、テスに殺される瞬間、テスの心がナイフとして彼の胸に突き刺さった.
そのとき、「僕は、生まれつき悪い男で、死ぬまで悪い男さ」と言ったアレックの苦悩が、終わったのである.


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