錆びたナイフ

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2019年10月26日
[本]

「実在とは何か」ジョルジョ・アガンベン


「実在とは何か」


副題は「マヨラナの失踪」
1938年に突然失踪したイタリアの物理学者マヨラナをめぐって展開する「実在」と「確率」の話である.
アガンベンの論考は本書の1/3ほどで、
エットレ・マヨラナの「物理学と社会科学における統計的法則の価値」
ジェロラモ・カルダーノの「偶然ゲームについての書」
が掲載されている.
マヨラナの論文は雑誌向けの短いもので、当時の物理学の考え方に関する論考だが、私にはちんぷんかんぷんだった.
カルダーノの論文は16世紀に書かれたもので本書の半分を占める.
『心に大きな不安を抱えていたり、悲しみに見舞われたりしているときには、賭け事は許されるだけでなく、有益ですらあると考えられる。収監中の者たちには、死刑囚にも、病人にも、賭け事は許されている』
カルダーノはギャンブラーだったらしく、警句を交えながら数々のゲームについて論じており、後世の確率論の元になった数学的な論考を含んでいる.

アガンベンの文章はとてもわかりづらいのだが、マヨラナの論文を解析した上で、
『もし量子論力学を支配している約束事が、実在は姿を消して確率に場を譲らなければならないということだとするなら、そのときには、失踪は実在が断固としてみずからを実在であると主張し、計算の餌食になることから逃れる唯一のやり方である』
という結論を出している.
物理学上の主張がマヨラナ失踪の真意であるというのは、アガンベンのこじつけだろう.
マヨラナが疑義を提示したいわゆる「量子力学のコペンハーゲン解釈」は、
「量子の世界というものはない。あるのは抽象的な量子力学の記述だけである。物理学の仕事を、自然を見出すことだと考えるのは間違いである。物理学は、自然について何が言えるかに関するものである」とボーアが言うように、それまでの物理の世界観を一転させた.
その「抽象的な量子力学の記述」というのが「確率」なのである.
一方で、アインシュタインは、観測者とは独立した因果律に従う世界が確かに実在すると主張し「神はサイコロを振らない」と断言した.
アインシュタインの量子力学に対する一連の反論は、その後ほぼ否定されたのだが、アガンベンは2016年になって、この書で話を蒸し返しているのである.
ある科学者の失踪の真実を探りたかったというより、この最新科学の考え方に、何か根源的な問題があると感じたからだろう.
「われわれが科学と呼ぶものの唯一の目的は、存在するものの性質を明らかにすることである」
このアインシュタインのしごくもっともな主張がくつがえされたということは、確かに尋常ならざることである.

アガンベンは文中で、シモーヌ・ヴェイユの量子力学への疑義を引用する.
『必然性の光景とそれがもたらす試練に何か浄化作用的なところがあるということは、ルクレティウスのいくつかの壮麗な詩行を読むだけでも十分に感じられる。みごとに耐え抜かれた不幸は、この種の浄化作用の一つである。同じように、古典科学も、それをうまく利用するなら、一つの浄化作用である。なぜなら、あらゆる外観を見つうじて、世界を、そこではわたしたちが無にすぎないような世界、みずから作動している世界、人間たちの欲求、志望、善には無関心な世界にしている、この峻厳な必然性を読み取ろうとしているからである。そして、悪人にも善人にも差別することなく光をそそぐ、あの太陽を研究するからである』
ヴェイユが「古典科学」と呼んでいるのは、量子力学登場以前の科学のことである.
例えば日食や月食のように、たまたまでも偶然でもない、科学が、必ずそうなると提示できることは、そこに「神」がいるというのと同じことなのだ.
神はまず世界を作り、その上で人間を作った.
だから人間が「観測」しなければ世界はない、などということはあり得ない.
この世界に「偶然」などはない、世界はあるべくしてあるのであって、確率が世界を作っているなど言語道断である.
科学が自然を解析することは、神のみわざを追認することであり、神の偉大さを讃えることである.
しかし、バチカンがホーキング博士に、宇宙の開びゃく(138億年前)以前を研究すべきでない、と主張したあたりから、科学は越境をはじめたのである.

「私が見ていない時、月はそこにないのか」とアインシュタインは言ったが、私はそういうこともあり得るだろうと思った
この世に確かなものなど存在しないという発想は、我々日本人にとってあまり違和感はないのだが、唯一神の西欧では居心地が悪いらしい.
ヴェイユやアガンベンが科学より宗教を信じているということではない.
『確率の名において必然性と決定論を放棄することで、 量子論的力学は---ヴェイユによると---あっさり科学を放棄してしまったのだった』
量子力学が「科学」自身を、さらには「人間の世界観」をも越境してしまった、と言っているのである.
『すでに古代において原子には偶然性が連れ添っていたいたことを、人々は忘れてしまっていた』
古代ギリシャのデモクリトスが、分割不可能な存在として「アトム」を提唱したとき、人間の思考はそこで停止し、実在もそこより先にはなく、世界は「連続」でははなかった.
ヴェイユが言うように、近代科学はギリシャ時代をわすれ、人間の思考は限りなく「連続」して自然の真理(神)に近づきうる、と考えた.
20世紀にラザフォードが「原子」を発見してから、流れが変わった.
素粒子のふるまいが離散的であることから、量子という呼び方をするようになったが、それはまさしく、非連続で、ゴツゴツした、確率と統計の世界であり、いまや人間の思考が産み出したその世界が、自然を凌駕しようとしている.

落語の小話
「鶴は千年、亀は万年」という口上で亀を売っている男に客が、昨日買った亀が死んじまった、と文句を言う.
すると男は、
「そりゃあちょうど万年目です」
と言う.
「統計」は過去の経験値だが、確率は経験値であれ理論値であれ、現実の事象に影響を与えることはない.
サイコロを転がして「1」の目が出る確率は1/6だが、現実のサイコロを6回転がせば必ず「1」が出るわけではない.
交通事故に合う確率と宝くじに当たる確率はほぼ同じだそうだが、それは誰かに当たることは保証しても、それが「自分にあたること」を保証しない.
「偶然」と「必然」は背中合わせだが、実はまったく同じことで、この世に確率などない、ということと等価である.
にもかかわらず、万物の基礎である量子の存在は、確率に依存するのか?
アガンベンは言う
『科学は、もはや実在界を認識しようとはしておらず---社会科学における統計学と同様---実在界に介入してそれを統治することだけをめざしているのである』
量子力学は不完全で、その背後には未知の変数が隠れているというアインシュタインの指摘を、現代科学は振り捨ててしまった.
『まるで確率がそれ自体きわめて特殊な一つの実在であって、パラドクス的な仕方でのみ思考しうるものであるかのように (たとえば一つの粒子が状態 Aと状態 Bに同時的に見出されるかのように) 論じている』
う〜む、生きた猫と死んだ猫とが同時に存在する、というあの話だな.
そして、それは、量子に関しては、そのとおり、なのである.

現代の量子力学は破竹の勢いで前進しており、その成果は間違いなく科学の成功例である.
アインシュタイン、マヨラナ、ヴェイユ、アガンベンをもってしてもその前進はやまない.
この書の表題に反して、アガンベンは「実在とはなにか」という問いに答えているわけではない.
「実在」=「実際に存在すること」とは何かという問いに、「世界を実存として認識する」その当のものが人間である、という以上の答えはない.
「実存」とは、「生きている」とか「利用する/利用されうる」ということで、「人間」は、そういう形でしか「実在」に接近することができない.

「観測していない時の存在は問えない」「量子の存在は確率でしかない」さらには「必ずしも因果律が成立しない」という量子力学の世界は、なにはともあれ、「実在」の彼方へ突入したのである.
神 :なにか困ったことがあるのか?
人間:宇宙の開びゃく前のことがわかりません.
神 :それがどうした.
人間:二重スリット実験で、光が波でも粒子でもあるようにみえます.
神 :そういうこともある.
人間:量子もつれで、「不気味な遠隔作用」が起こります.
神 :難儀なことじゃ.
人間:この世界は、ほんとうに神様がお造りになったのですか?
神 :わしをだれだと思っておる.


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