2019年9月29日
[映画]
これも西部劇と呼ぶのだろうか.
アメリカという未開の大地に進出した人々の話は、アメリカ魂の原点なのだが、この映画はケタがちがう.
暗く湿って凍えたような映像.
ロッキー山脈の北部、冬の森林と大河は、人間を拒否するかのように厳しく、美しい.
この大自然の中で撮影をしたら、誰もこんな顔になるのか.
鬼気迫るディカプリオに、「タイタニック」の青年の面影はない.
登場するのは、原住民インディアン、商人、軍人、猟師、そして熊.
西欧で売るための毛皮を求めて、猟師たちは集団を組み、半年に渡って狩をする.
ヒュー・グラス(レオナルド・ディカプリオ)は、その案内人である.
彼は若い息子ホーク(フォレスト・グッドラック)を連れている.
二人はインディアンの言葉で話をする.
グラスはかつてインディアンとともに暮らし、その妻は軍隊の襲撃で死んだ.
猟が終わってミズリー川を下ろうとする時、猟師たちのキャンプが、アリカラ族インディアンに襲われる.
どんよりとした空の下で、矢と銃弾が飛び、怒声が飛び交う.
移動するカメラ、長回し.
死体がころがる.
すさまじい映像で、どうやって撮影したのか、どうやって演出したのかわからない.
撮影監督はエマニュエル・ルベツキ.
「トゥモロー・ワールド」や「ゼロ・グラビティ」を撮った男である.
多分、画面全体をコンピュータの中で組み立て直しているのだ.
我々はいったい、何をみているのか?
再び襲撃されることを怖れて、グラスの部隊は船を捨て、カイオワ砦まで陸路を進むことにする.
白人の住む開拓地はまだない.
この地では、交易所、駐屯地、砦だけが安全な場所なのである.
その途上で、グラスは熊に襲われ、瀕死の重傷を負う.
グラスが死んだらその場所で葬るという約束で、部隊はホークと二人の仲間を残して先へ進む.
その仲間の一人がフィッツジェラルド(トム・ハーディ).
この男はグラスとホークを嫌っている.
「野蛮人は野蛮人だ」
彼の頭には、皮を剥がされた跡がある.
最初からそのつもりはなかったのだろう.
フィッツジェラルドはグラスを見捨て、刃向かったホークを殺して砦へ向かう.
しかし、グラスは生き延びる.
驚異的な生命力で復活し、大地を這うように進み、凍えるような激流に流され、バッファローの群れに出合い、妻が夢に現れる.
グラスは300キロを走破し、砦にたどりつき、フィッツジェラルドに復讐する.
最後はアメリカ映画お決まりの、仇同士の肉弾戦で、あ〜あと思うが.
復讐譚というより、この男は、生死を超えて、この大自然そのものにみえる.
フィッツジェラルドは砦で、グラスを葬ったと嘘を言い、約束の報酬を得た.
この男は善人ではないが、この地で、いったい悪人とはなんのことか.
映画の中では「インディアン」と呼ばずに、部族の名前で呼んでいる.
白人を敵視する部族ばかりではない、グラスを救い、共に旅をするインディアンもいる.
毛皮商人たちに破壊された村.
この地で、女は、インディアンしかいない.
白人にさらわれた娘を探し求める男がいう.
「お前たちは我々からすべてを盗んだ」
西部開拓というのは、自然というより「ニンゲンの闘い」なのである.
この覚悟の上に、アメリカ人はいる.
もしコロンブスがこの地を発見せず、ネイティブ・アメリカンたちだけの世界が続いたなら、平和のままであっただろうか.
荒くれ男ばかりの集団に、友情も信頼もありえるだろうが、この地で生き抜くのは、おのれの力と信念だけである.
白人が持ち込んだのが、略奪と殺戮だったとしても、この地で、アメリカという新たな価値が生まれたのだ.
その歴史はわずか200年.
アメリカ人の心の底を探ると、移民の母国ではなく、インディアンの生活が現れるというのは、最近の話である.
私は、黒澤明の「デルス・ウザーラ」(1975)とか、李相日の「許されざる者」(2013)を思い出した.
仲間同士の厳しいおきても、雲と風のような呪術も、廃墟の教会にある十字架のキリストも、大自然のあとからやってきた.
この寡黙な主人公は、これからどうして生きていくのか.