錆びたナイフ

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2019年9月21日
[本]

「福岡伸一、西田哲学を読む」 池田善昭、福岡伸一


「福岡伸一、西田哲学を読む」


福岡は生物学者、池田は西田幾多郎哲学の学者である.
二人は対談を重ねながら「生命とは何か」という問いに迫る.
細胞内で、合成と分解/酸化と還元のような矛盾する作用が同時に働くことを、福岡は「動的平衡」と呼んで、それが生命の基本だという.
西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」と、福岡のいう「動的平衡」は同じことだというのが、この書のメインテーマである.
それを見抜いたのは池田であり、福岡は池田と対談を重ねながら、西田哲学を自らの生物学にあてはめ再解釈してゆく.

『とにかく細胞というか生命というのは、壊すことに一生懸命なのです。どんな場合でも壊せるようになっている。なぜかというと、壊さないと、エントロピーを捨てられないし、壊さないと、次が作れないから。だから、壊すことが唯一、時間を前に進める方法なんですよね』
福岡のこの着想は面白い.
都市を作る映画なんぞより、怪獣や隕石や地震や宇宙人が都市を破壊するという映画のほうが、好まれる所以である.

池田が、樹木の「年輪」はその木の環境に包まれていると同時に環境を包んでいる、という例をあげる.
西田哲学はこれを「逆限定」と呼び、弁証法の基本的考え方なのだが、福岡は「年輪が環境に影響を与える」とはどういうことかと疑問を投げかける.
結局福岡は、年輪を作ることは「時間の空間化」であり、年輪は「空間の時間化」を現わすと納得する.
『でもそれがようやくわかってきました。年輪は環境の変化を繋いでくれているのです。・・つまり逆限定とは時間を生み出すしくみだといえるように思います』

西田哲学に現れる難解な言葉は、福岡流の生物学の言葉に変換すれば実にわかりやすくなる.
例えば西田の原文
『世界は個物的多と全体的一との矛盾的自己同一の世界である。何処までも多の自己発否定的一として時間的に、何処までも一の自己否定的多として空間的に、時間と空間との矛盾的自己同一的に、作られたものから作るものへと、形が形自身を形成し行く世界である。私は之を絶対現在の自己限定と云う』
私にはチンプンカンプンである.
福岡の解釈
『世界(=この場合、生命の世界)は、雑多な細胞の集合体であるものが、全体として一つの有機体として機能するという、相反する状態が重なりあった世界であるといえる。これは逆反応 (合成と分解、酸化と還元、あるいは取り込みと放出)が同時に行われている上に成立するバランス、いわゆる「動的平衡」状態といえる。
細胞がたえまなく自ら死に・自らを作り出す流れ(=時間)の中に個体はあり、個体はたえまなく交換されるジグソーパズルのピースのごとき細胞によって、おぼろげで輪郭(=空間)を持った全体像としてある』
ふむ、はるかにわかりやすい.

池田はいう.
『ヘラクレイトスによれば、ピュシス(自然)は「隠れることを好む」とされ、常に隠されている存在なのですが、ロゴスの立場というのは、自然は完全に人間の理性の中で暴かれていて、その隠れなさゆえにすべてが理解し尽くせると考える立場です』
西田哲学は、ロゴスではなく、ピュシスに帰れと主張する.
福岡が、細胞の本質はその「膜」にある、と見抜いたことがその突破口であり、細胞は膜に包まれると同時に、膜は環境を包みかえしているという見方は、西田哲学の真骨頂なのである.
こういう発想は、従来の原因/結果の因果律を基にした科学では到達できない.


「図-3」


福岡が「ベルグソンの弧」と呼ぶ、坂を転がるリングのようなものを考えて、それを生命の働きとして説明するところが面白い.
放っておけば坂を転げ落ちてしまうリングも、リングの一部で分解と合成が同時に起これば、重心が前へ傾き、リングは坂を登ることができる.
坂を下るというのは、エントロピーが増加する、つまり死ぬということである.
分解と合成とは、細胞の老化と再生のことで、生命とはこれ、すなわち分解と合成の「動的平衡」にある、と言われれば納得してしまう.

エントロピー増大というのは熱力学の法則で、この書では、秩序あるものはやがて無秩序になる、つまり生物は生きるための活動をしなければ死滅してしまう、という意味で使っている.
では「ベルグソンの弧」が、坂を転げ落ちたら何が起こるのか.
細胞が「動的平衡」を失ったとき、細胞膜は破れ、アミノ酸や炭素や酸素が散らばるだろう、それらは環境の中で利用されるか、さらに分解される.
生きている細胞も死んだ細胞も、原子のレベルでは同じものである.
「死」とは何かということが、実はこの書の中では「隠されている」

『全体(一) から要素(多)へ、そして要素から全体へという互いに相反する反応(矛盾)は、生命にあっては、常に同時的・対抗的に起こっている。西田のいうところの「逆限定」といってよい。これが、絶え間なく増大するエントロピーの流れの中にあって秩序をかろうじて維持するしくみであり、自己を保つ方法(自己同一)である。これが生命を生命たらしめるもっとも重要な特性であり、生命の定義といいうる。わたしはこれを動的平衡と呼ぶ。つまり動的平衡は、絶対矛盾的自己同一と同義的な概念だとみなせる』
しかし、砂を削り砂を堆積する浜辺も、太陽も風も、動的平衡状態にあり、およそこの世で動的平衡にないものはない.
だから「動的平衡」という概念そのものは、生物の定義になりえない.
私がこの本を読んだ限りでは、生命とは何かという根拠は、細胞が、エントロピーの増加に「先回り」をしているという発想にしかない.
浜辺をなす砂も、太陽のヘリウムも、風をなす空気も「先回り」をしない.
細胞は、まるで「意思」をもっているかのように「自己を維持するために先回りする」のである.
しかし細胞が「意思」を持つとは?
私が、今夜はラーメンを食べようとする「意思」と、どこが違うのか.

科学は単純な原因と結果のつながりしか見ようとしない.
つまり「木を見て森を見ない」から「生命」というものがわからないのだ、というのがふたりの主張である.
しかし、福岡が終始その理論の対象にしているのは「細胞」だけである.
あたかも葉を語れば森がわかる、とでもいうように、犬もヒトも、単に細胞のかたまりに過ぎないのか?
そんなことはない、この書には「細胞(要素)が集まったもの(全体)とは何か」が隠されている.

池田は、現代の科学の真理は「歪められた実在」だと断じている.
ソクラテス・プラトン・カントにつらなる「科学」は、人間の理性や論理で近づける範囲のみで、自然の姿かたちを理解したり構成したりしている.
つまり人間の都合で勝手に自然を解釈している.
だから科学から主観性を排除せよと、池田は摩訶不思議なことを主張する.
池田のいう「主観的でない自然解釈」というのは、何なのか.
樹木の切り口に「年輪」を認めるのは人間だけである.
さらに「年輪」が環境の時間的変化を表すと理解しているのも人間だけである.
池田は、人間がいなくても「年輪」はそういう性質/機能をもっていると言う.
そこで福岡は、量子力学の「観測問題」をちらりと提示するが、池田は否定し、議論は素通りする.
この書には「人間とは」という問いがまったくでてこない.
それは隠されているのではなく、人間は語るにおよばず、なのである.

福岡が細胞の「膜」に注目したように、かれらは「間」を重視する.
主観と客観のあわい、因果律ではないもの、同時に存在するもの.
だから、DNAがあれば生物、などという定義に興味はない.
いわんや動物と人間の区別など.
西欧哲学は断固として「人間」のところで一旦止まるのだが、東洋哲学は簡単に生命と物質を越境する.
『個体は・・おぼろげで輪郭を持った全体像』にすぎない.
「色即是空、空即是色」
この世に不変なる実体など存在しない.

「科学の色メガネ」を外して自然をありのままに見よ、そこにこそ真の「実在」があると池田は主張する.
しかし福岡がいうとおり、自然は動的平衡状態にあり、ありのままに見ればみるほど、事物の境界は「あやふや」になる.
実は、池田がいう「実在」とは、文字通りの「実際に存在すること」「客観的に独立して存在すること」ではないのである.
「そもさん せっぱ」
「禅」は、言葉で伝えられるものではなく、体得するものである.
だから文章にすればそれは、トートロジーの如く、限りなく摩訶不思議で意味不明になる.
重力波もブラックホールもしゃらくさい、科学の数式で自然がわかるはずはない、と、老哲学者は思っている.

この書で評価されている、今西錦司は、地球そのものが生命であるととなえ、シュレーディンガーは、量子の実在を信じて、半死半生のネコなどナンセンスだと言った.
細胞も年輪もネコも動的平衡も、「モノ」(実在)ではなく「コト」(ありさま)なのである.
現代の量子力学は、ミンコフスキー空間もエントロピー増大も因果律も超えて、「実在」のはるか彼方にいる.
巨大な加速機が極小の粒子を衝突させるその実験は、エネルギー(コト)と質量(モノ)とが変転する「色即是空、空即是色」の場である.
科学者である福岡は、そのことに気づいていると思う.


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