錆びたナイフ

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2019年6月30日
[映画]

「小さいおうち」 2013 山田洋次


「小さいおうち」


おばあちゃんと呼んでいるが、おお叔母さんである布宮タキ(倍賞千恵子)が亡くなったところから話が始まる.
タキは一人暮らしで、甥の孫である大学生の健史(妻夫木聡)が彼女のアパートに出入りしている.
タキは若い頃の思い出をノートに綴っていて、その戦時中の暮らしが再現される.

昭和10年に雪深い山形からはじめて東京に出てきたタキ(黒木華)は、最初小説家(橋爪功)の家で女中として働き、それから東京郊外の平井家で働くようになる.
平井家は、赤い屋根の洋館で、おもちゃ会社の専務である夫・平井雅樹(片岡孝太郎)とその妻・時子(松たか子)と子供・恭一の3人家族.
タキは家族から信頼され、ここでずっとご奉公したいという.

戦況が次第に悪化してゆく時節、映画はこの時代の庶民の生活を丹念に描いている.
南京陥落、デパート大売り出し、景気はよくて、むしろ希望にあふれていた.
人々は、先が見えない日中戦争を、近衛内閣が解決してくれると期待している.
やがて、ありえないと考えていた日米開戦.
無理難題をふっかける米英に対して一矢報いたと、国民は万歳をさけぶ.
きっと良くなるという期待は少しづつ消え、生活は次第に厳しくなってゆくが、人々は「一億火の玉」になることが唯一の解決方法だと信じている.
不足する物資も、闇やコネを使えばまだ手に入れることができた.
平井家はどちらかといえば裕福で、タキはあれこれと切り盛りをしながら家族の生活を支える.

健史はタキのノートを読んで、戦時中の国民はひどい生活を強いられていたのに、おばあちゃんは当時を美化していると言う.
タキは「あんたは頭はいいけど想像力が足りないね」と言う.
確かに厳しい時代だったが、彼女にとっては忘れがたいしあわせな時期だった.
同時に、苦しかった「あのこと」の前でタキの記憶は足踏みしてしまう.

夫の部下である画家の板倉正治(吉岡秀隆)が、平井家を訪れる.
戦争話になじめない正治を、時子は一目で気に入る.
この青年をめぐって、タキと時子の三角関係になる?と思いきや、すこし違う.
台風の晩、時子は正治に接吻する.
愛というより、人妻が若い男を好もしく思ったというふうなのだが、時子の思いは次第に深くなる.
時子の夫は凡庸な男だが、夫婦仲が悪いわけではない.
タキだけが気づく、時子の心の揺れがこの作品の核心で、まるでタキの心が時子の許されぬ愛をなぞっているかのようだ.
青年に逢うために帯をしめる時子、青年の下宿の階段を上ってゆく時子の足元.
青年の部屋での「房事」の描写はまったくない.
が、この胸が苦しくなるような逢引と、妖艶な時子の演出は見事というほかはない.

一人で悩むタキに、女学生時代から時子の友人という睦子(中嶋朋子)が妙なことを言う.
当時あこがれの的だった時子が結婚すると聞いた時、自殺しようとした女学生もいた、と.
同性愛をほのめかしているのだが、これが表にでないタキの心の伏線になっている.

丙種合格という正治にも召集令状が来る.
明日郷里へ帰って兵役につくというその男に、どうしても今日逢いたい時子.
タキがそれを止める.
家に来るようにと手紙を書かせて、タキがそれを届ける.
しかし男は来なかった.
「私と奥様だけの秘密」
空襲が始まり、タキは故郷に帰る.

タキの自叙伝は、戦後、平井夫妻が空襲で亡くなったことを知ったところで終っている.
彼女が健史に残した遺品の中に、開封されていない手紙が一通あった.
それがミステリーのように、その後の謎解きの展開になる.
健史が、戦後童話作家になって亡くなったという正治の作品に出会う.
そして、この話では唯一の生存者・恭一のもとを訪ねる.
そこで手紙を開封した健史は、あのふたりの最後の逢瀬に、おお叔母は手紙を渡さなかったのだ、と気づく.
タキは、そのことを後悔していたのだろうか.
恭一老人は、「タキちゃん、君の小さな罪はもうとっくに許されている」と言う.

タキがアパートの部屋で「わたし、長く生きすぎた」と嗚咽するシーン.
彼女は悔いていたわけではない.
人生をもう一度やり直したいかと問われれば、もうまっぴらなのだ.
にも関わらず、この「記憶」の圧倒的な思いは、いったい何か.
「あのこともこのことも、とりかえしがつかない」
もう誰も、この世にいないのだから・・
この思いは、老人にしかわからない.


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