錆びたナイフ

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2018年11月22日
[本]

「脱病院化社会」 イヴァン・イリッチ


「脱病院化社会」


現代医療に対する怨嗟の声に満ちている.
「典型的な研究病院(大学病院)に入院した患者の五人に一人は医原病をもらう。それは時には些細なものであるが、そのために特別の治療が必要となるのが普通で、三〇人に一人は死にいたる」
こういう記述にあふれている.
「医原病」とは、医者や病院が病気を生み出す、という考えである.
上記の文章は、よく読むと意味が不明瞭で、巻末に100頁におよぶ原注がついているにも関わらず、この書の事例は、にわかには信じがたい.
私は最初、これは「トンデモ本」ではないかと思った.
「NASAは宇宙人を匿(かくま)っている」といった類のトンデモ本は「我田引水・牽強付会」だから、いかにも専門家風の言説にあふれている.
しかしその内容は、通説への非難と自己理論の強調なので、文章に「品」がなく、おのずと「あやしい」のである.
イリッチの文章はまわりくどくて読みにくいが、これはトンデモ本ではない.
読み進むうちに、著者の切実な叫びを感じる.

医療過誤とか過剰医療の話ではない.
医原病は歴史や文化に広がり、世界をおおう「支配権力」であると著者は訴えている.
それは、フーコーのいう「生権力」のことである.
私は「大きなお世話権力」と呼んでいる.
イリッチは、平均寿命が延びたのは医療のおかげではなく、衣食住環境の改善と教育のせいだという.
「人間の苦悩の大部分は急性で良性の病気から成り立っており、これらは自らなおるか、ほんの二、三ダースのきまりきった医療の介入でよくなるものである。医師のなしうる最善のことは、・・・患者に対して祖母がなしえただろうことをなすだけで、あとは自然にまかすことなのである」
しかし、おばあちゃんが治してくれるのはせいぜい「風邪」や「切り傷」である.
重篤な怪我や病気、悪性の癌、免疫のない感染症、治療が困難な難病、素人には治療できない病はいくらでもある.
それでも医者にかかるべきではない、というのか.
イリッチはその問いをはぐらかせているが、実は、その時は死ねばいい、と考えているのではないか.

「個人の問題として理解され耐えるべきものとしての痛みに反対するキャンペーンは、デカルトが肉体と魂とを分離したときはじめて開始された。彼は身体のイメージを幾何学、機械、時計製造、技術者によって修理できる機械にかたどった。身体は魂によって所有され、支配される装置になってしまったが、身体と魂の間の距離はほとんど無限になったのである。
 デカルトにとっては、痛みは身体がその機械的統一性を守ろうと自己防衛する際の反応のシグナルなのである」
私たちは「痛み」や精神的な「苦悩」すらも、身体の発する「警報」なのだと解釈する
イリッチはこれに反論する.
「ギリシャ人たちは自らの歩みの中で、痛みを感じずに幸福感を味わうことなど考えたこともないのである。痛みとは魂が進化を経験することなのだ。・・・身体はまだ魂から分離されず、病気も痛みから分離されていなかった。身体的痛みを示すすべての言葉は同じ様に魂の苦悩にも使用できたのであった」

イリッチは「医原病」が社会、文化、さらには「健康」という概念にまで侵食していると指摘する.
「死」は「機能を停止する機能」として自立した.
「西欧の人は、死ぬという自らの行為において主体的である権利を失ってしまった。健康すなわち病気と闘う自律的な力は、最後の息の根まで奪われてしまっている」
「死ぬことは消費者の抵抗の窮極的な形式である。・・社会が、医療システムを通して、いつ、そしていかなる侮辱的待遇、虐待を課してから患者を死なせるかを決定する。社会の医療化は自然死に終焉をもたらしたのである」
イリッチの指摘は痛切である.
全ての工業製品と同じように、医療産業は「健康」も「死」も商品化しただけではない.
現代の高度な医療は、延命治療をコントロールすることで、死期を選択可能にした.
おかげで、末期治療の患者に意識がない場合、あるいは認知症の場合、彼は、死ぬことができなくなった.
もはや「お迎え」は、向こうからやってこないのだ.

著者は、医療に限らず、増大する工業化は世界を悪化させる、とみている.
「どのような価値の主要領域においても、産業生産の拡大がある点を超えると、限界効用は公正に分配されなくなり、同時に全般的な有効性も下降しはじめることは証明されうる」
どうやって証明するのだろう.
「われわれの圧倒的な苦悩、絶望、不公正は、よりよい教育、住宅、食事もしくは健康をもとめるための戦術の副作用ともいうべきものが大部分である」
イリッチは「大部分」とか「普通は」といった、ひどく大雑把なとらえかたをする.
「飢饉に対して、産業化された効率のよい農業をさらに推進させることで対応しようとする試みは、辺緑の土地利用を下げることでカタストロフの範囲をさらに拡大させるだけであろう」
あ〜あ、では、どうすればいいのか.
「うけつがれてきた神話は、もはや行動に限界を設けることをやめてしまった。もし人類がその伝統的神話の喪失後にも生存していこうとするなら、羨望の念にみちた貪欲かつ怠惰な夢と、理性的、政治的に闘うことを学ばなければならない」
「神話」の喪失というのは、それは人倫にもとるとか天罰が下るとかいう人々の思いでは、もはや医療・技術・工業化の進歩にタガをはめることはできない、ということである.
ではだれがネコの首に鈴をつけるのか.
イリッチは、政治的に「工業的生産様式に限界を設けること」でそれを防げる、と言う.
つまり法律で、テクノロジーと人間生活の中庸を保て、と言うのだ.
「社会的アウトプットの公正な配分、社会的コントロールへの公正な接近」がなされるべきだというイリッチの発想は、公正という名の社会正義がまだこの世にあると信じられた70年代の夢である.

イリッチはアメリカに住んで、1970年代の西欧の状況をもとに医療を語ったが、今の世界の「生権力」は、彼の思いのはるか先にいる.
医療を「非専門化」することを通して、人間復活の夢を、イリッチは「脱病院化社会」と呼んだのだろう.
「生権力」が目指す「脱病院化」は、世界中を病院化することである.
臓器移植や再生医療は、現代医学そのものが、世界を支える「神話」になりえることを示唆している.


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