錆びたナイフ

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2018年8月26日
[映画]

「ミッション」 1986 ローランド・ジョフィ


「ミッション」


18世紀、南米パラグアイで布教活動をする宣教師たちの話である.
巨大な滝の上流にある先住民インディオ(映画ではインディアンと言っている)たちの村に、宣教師がたどり着くまでの道のりは大変なもので、よくまあこんな映画を作った.
役者とは思えない先住民たちも、現地ロケの映像も見事で、圧倒される.

主人公は、イエズス会の神父ガブリエル(ジェレミー・アイアンズ)とメンドーサ(ロバート・デ・ニーロ).
メンドーサは悪辣な奴隷狩り商人だったが、愛人への嫉妬で弟を殺し、ガブリエルに誘われてインディオの村へ向かう.
鎧兜を詰めた袋を、あえて引きずって歩くメンドーサにとって、それは贖罪の旅だった.
インディオたちはメンドーサを許し、彼は宣教師の一員になる.

イエズス会はカトリックの男子修道会だが、彼らはその「正統的正義感」をもって世界の布教活動に邁進した.
彼らが闘ったのは、先住民たちの「野蛮」な生活態度だけではない.
奴隷制度があるポルトガル領も、白人の農場で公然と奴隷を酷使するスペイン領も、どちらも先住民を人間扱いしていなかった.
ガブリエルたちは先住民を守ろうとするが、奴隷制度で金儲けをする商人と、彼らと結託する現地の偽政者、カトリック教会の中でイエズス会の勢力拡大を怖れるものたち、ポルトガル国王とスペイン国王、それらの利害の板挟みにあう.
カトリック教会から当地へ派遣された枢機卿アルタミラノ(レイ・マカナリー)が、ガブリエルたちの村の帰趨を握っている.
インディオたちは賛美歌を歌って枢機卿を迎えるが、結局彼はインディオたちにこの村を出るように言い渡し、軍隊が派遣される.
枢機卿は、イエズス会を守るためと称して、ガブリエルたちの使命(ミッション)を無に帰したのである.
インディオたちにとっては、いい面の皮である.

宣教師らは「インディオらと共にいる」ことを選ぶが、メンドーサらの抗戦派とガブリエルらの非暴力派に分かれる.
頭にカツラをのせた指揮官と、珍妙な帽子をかぶったスペイン軍兵士たちが、村を殲滅せんと、ジャングルを進み船と大砲を滝の上まで運び上げる.
インディオの男たちはメンドーサらの指揮で戦うが、結局兵力と武力で圧倒され、壊滅する.
ガブリエルと女子たちは、無抵抗のまま軍の銃弾に倒れる.
あれれ、ジャングルでゲリラ戦をすれば、原住民が簡単に負けるはずはない、と私は思う.
問題は、インディオたちが徹底的に闘うとはどういうことか知らなかった、ということだろう.
ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」によれば、西欧諸国が世界の植民地を支配できたのは、スペイン人やポルトガル人が現地のインディオたちより優秀だったからではなく、西欧が、銃と病原菌と鉄を持っていたからだ、という.
「病原菌」というのは、都会で暮らす西欧人は、多くの感染症に対する免疫を持っていたということである.

「地獄の黙示録」を思い出すのだが、密林に住む種族が持つ強烈な存在感はない.
この映画はあくまで宣教師の側から布教活動を描いていて、先住民にとって、西欧の神が何者であったかという視点はない.
冒頭に「こうしてグアラニー族は/永遠なる神と/限りある命の男を/知ることになるのです」とあるが、密林で暮らす彼らもまた「彼らの神」と「限りある命」を知っていただろう.
罪や贖罪や、この世に生きることの嫌悪は、キリスト教が生み出したものだ.
重いだけの袋をまるで十字架のように引きずってゆくメンドーサは、人間であることの崇高さと愚劣さの極みである.
いったい宣教師たちは、インディオに何を教えたのか.

宗教は「目覚め」である.
目覚めたニンゲンはすごい.
地の果てまで出かけ、滝を登り、原住民に「君たちの生き方は間違っている」と言い、
おもむろに、かつてニンゲンに磔にされた男の像をまつり.
挙句にこの宣教師は言う「力が正義なら/愛の居場所はない/それが現実なら/そんな世界では生きられない」と.
隣人愛を忘れたニンゲンたちの銃弾に、彼らは自らその身をさらした.
これは悲劇でも喜劇でもなく、愛でも献身でもなく、ある種の病理なのだと思う.
ニンゲンであることとは、「病気」なのである.

かれらの「神」は、最後まで沈黙している.


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