錆びたナイフ

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2018年5月21日
[本]

「存在と時間 Ⅱ」 ハイデガー


「存在と時間 Ⅱ」


「現存在は、そのつど、おのれがそれでありうる当のものであり、おのれの可能性であるとおりのものである」
こういう螺旋を描くようなまわりくどい文章が延々と続く.
論理的でも明快でもない.
原文のせいか日本語訳のせいか、文章がとにかく読みにくい.
この書を理解できるのかと言われれば、私には一割程度しかわからない.
それでも読む気になるのは、この著者が、何かとても大事なことを言おうとしている、と感じるからである.
「存在する」「了解する」というのはどういうことか、子供でもわかる単純なこのことを、ハイデガーは考えに考え抜いている.

「この開示性によってこの存在者(現存在)は、世界が現にそこに開示されて存在していることといっしょになって、おのれ自身にとっても「現にそこに」存在しているのである」
「現存在がおのれ自身に本質上開示されているということ、しかも、おのれに先んじてという在り方において開示されているということ」
ハイデガーが言う「開示性」とは、表現すること/オープンにすること/主張すること、だろう.
ハイデガーが「配慮的な気遣い」と言うのは、心配して気にかけるということだ.
つまりぼうっとせずしっかり「気を配る」ということだが、同時に、気を配るものも配られるものも互いが「主張」しているのである.
存在するということは、このふたつの営為が出合うことであり、この出合い得るという可能性が、世界の本質だと、ハイデガーは考えている、と私は思う.
人間は周囲に働きかけることで世界を作り、同時に石も木も動物も、その世界の内で働きかけているのである.
働きかけるというのは、例えば色や形や重さを持っていること、声を出すこと、匂いを出すこと、大きさや遠さ=距離を持っている、というようなことだろう.
ホケキョと鳴くからウグイスなのではない、ホケキョと鳴くことで「ウグイスという存在になる」のである.
こういう世界の中の人間のありようが「現存在」である.
環境世界が目の前に存在することと、人間がそれを了解し認識し自ら存在していることとは一体であり、切り離せないのだ.
この著者は、例えば目の前にコップがあるのは、コップに反射した光が人間の網膜に映り、視神経を通して脳内でコップがあると認識される、というふうにはまったく考えていない.
さらに、コップは「道具的存在者」であり人間がそれを利用し利用されるという営為がなければ、そもそもコップという存在は無い.
コップという「実存」は、ガラスの塊という「本質」に先行する、のである.

ハイデガーが言おうとしているのは、モノの「意味」や「意義」のはるか手前にあるものだ.
この書に出てくる「不安、恐れ、了解、解釈、陳述、空談、好奇心、曖昧性、真理、死、良心」といった言葉は、我々が日常的にとらえる意味ではなく、あくまで「存在論的」にとらえ直したものである.
それは、物理学や心理学や論理学よりずっと根源にあるものだと、ハイデガーは言う.

「現存在は、本来的な自己存在しうることとしてのおのれ自身から、差しあたってつねにすでに脱落してしまって、「世界」に頽落してしまっている」
「その世界内存在は、「世界」と、世人というかたちをとった他者たちの共現存在とによって、完全に心を奪われているのである。
 "おのれ自身ではない"ということが、本質上配慮的に気遣いつつなんらかの世界のうちに没入している存在者の積極的な可能性として、その機能を果たしているのである」
「頽落」など、聞いたことのない言葉だ.
「世人」つまり世間の一般人は、会社や家庭や親戚や近所づきあいという「共現存在」に埋没して本来の自己を忘れ、立場という名のレッテルで生きている.
人間は、スマホを通してお互いを「開示」し、今やネットの世界内にデジタルデータとして「存在」している.
と、まさかこんなことを言っているわけではない.
ハイデガーは、「例えば」という言い方をしないうえに、単語の意味を独自に作り直しているので、実は何が問題なのか、よくわからない.
著者は「頽落」を「人間の自然的本性の頽廃」以前にある「一つの存在論的な運動概念なのである」とみていて、あながち否定的ではないのだが、良いことだとも言っていない.
どうも歯切れが悪い.
「頽落」することで何か困ることがあるのか、と我々世人は思う.

「死は、現存在であることの絶対的な不可能性という可能性なのである。このようにして死は、最も固有な、没交渉的な、追い越しえない可能性として露呈する。このようなものとして死は一つの際立った切迫なのである」
「死は可能性である」と言われたところで、少しもうれしくない.

「良心は、世界内存在の不気味さのうちから発する気遣いの呼び声であって、この呼び声は、現存在を、最も固有な責めあるものでありうることへと呼びさます」
ハイデガーの言う「良心」は、宗教でも道徳でもない、それは「現存在」が「頽落した」おのれにむかって叫ぶ「身震い」のようなものである.

この第2巻のテーマ「世人」と「死」と「良心」の話は、日常的な人間の営為を存在論的に再定義しようとして、低空飛行をしている.
人間は四六時中「配慮的な気遣い」をしているわけではない.
ぼうっとしている時、無我夢中の状態にあるとき、眠っている時、あるいは意識がないとき、「現存在」はどこへいくのか.

「情状性(=気分)は、世界、共現存在、および実存の等根源的開示性の一つの実存論的な根本様式なのである」
「認識が開示しうる諸可能性のおよぶ範囲は、気分の根源的な開示とくらべれば、あまりに狭小であるからであって、気分のうちでこそ現存在は現(=開示の場)としておのれの存在に当面させられているのである」
「存在」は「気分次第」、なのである.
「気分は、「外」から来るのでもなければ、「内」から来るのでもなく、世界内存在という在り方として、世界内存在自身からきざしてくる」
つまり、振り出しに戻ってしまった・・・
この「外」でも「内」でもない「世界内存在」というのは、結局「無意識」のことだと、私は思う.

ハイデガーの論旨には、夢と現実を区別する根拠がない.
夢は、実存でできている.
ハイデガーは、夢の中で、不気味な巨人をあやしている.
それは、巨大な赤ん坊である.


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