錆びたナイフ

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2018年2月25日
[本]

「悲劇の誕生」 ニーチェ


「悲劇の誕生」


「ひょっとしたら、『悲劇』は快感から生まれたのではないか? 力から、みちあふれるような健康から、ありあまる充実から発生したのではなかったか?」
この著者はとんでもないことを言う.
古代ギリシャに誕生した「悲劇」をニーチェは単なる劇の「種類」ではなく、そこに人間が生きる上で必須の構造があるとみなしている.
ここでいう悲劇とは、巨大なものに戦いを挑んだ主人公が苦悩し滅亡する、という話である.
ギリシャ文明は、明朗で快活なアポロ的文化を思い浮かべるが、ニーチェはそれにデュオニュソスという神を対比させた.
この神は別名バッコス、陶酔と集団的狂乱の神である.
円形劇場で演じられたギリシャ劇の中で、合唱団が歌うその音楽そのものが、ディオニュソスが担った悲劇の誕生であると、ニーチェは考える.
「ギリシャの世界には、その起源からいっても、目標からいっても、造形家の芸術であるアポロ的芸術と、音楽という非造形的芸術、すなわちディオニュソスの芸術との間に、ひとつの大きな対立があるということだ」
我らがヒーローは「まず巨人たちの国を転覆して怪物どもを殺さねばならぬ」それを成し遂げ、愛する女性と結ばれる.
いや、神々と人間とが混在するあのギリシャ彫刻の堂々たる肉体を見上げれば、ギリシャの神々は人間に偉大なる犠牲を要求したのである.
「プロメテウスは、人類に対するその巨人的な愛のために、禿鷹にひきさかれ、エディプスは、スィンクスのなぞを解いたその度はずれな知恵のために、非行の混乱する渦の中へ落ちこまねばならなかった」
「アポロが現象の永遠性のかがやかしい賛美によって個体の苦悩を超克するのであり、ここでは美が生につきものの苦悩に打ち勝つのである。苦痛はある意味で自然のおもかげからぬぐい去られたように見せかけられるのである」
ニーチェが個体と呼ぶのは、人間が人間としてこの世界に生まれたことだ.
アポロ的な解放は"見せかけ"だが、ディオニュソスの悲劇があるからこそ、その見せかけが輝く.
「われわれは永遠の生命を信じる」と叫ぶのは悲劇のほうである.
アポロとディオニュソスは、陽と陰、理性と本能、あるいは意識と無意識に似ている.

しかしその後のギリシャ人は、神話と悲劇を自滅させてゆく.
ソクラテス、プラトン、エウリピデスといった哲人たちの論考で、ニーチェは現代社会に通じる「楽天主義」を痛烈に批判している.
ニーチェの論旨では、ギリシャ神話とギリシャの人間たちが渾然一体となっていて、神話は荒唐無稽の絵空事ではなく、人間と社会の持つエネルギーの根源なのだ.
「ソクラテスと言う人物においてはじめて世にあらわれた信念、自然が究明できるものであり、知識が万能薬的な力を持っているというあの信念」
それは、ソクラテスからデカルトを経て綿々と続く「科学」という名の神話破壊である.
「徳は知である。無知からのみ罪はおかされる。有徳者は幸福な人である」と説いた「ほかならぬこのソクラテス主義こそ、下降・疲労・疾患の兆候、無秩序に解体してゆく本能のしるしでありうるのではないか?」

「芸術だけが、生存の恐怖あるいは不条理についてのあの嘔吐の思いを、生きることを可能ならしめる表象に変えることができるのである。その表象とは、恐怖すべきものの芸術的制御としての崇高なものと、不条理なものの嘔吐を芸術的に発散させるものとしての滑稽なものとである」
動物はこんなことを考えない.
人間だけが、押し出されるように、世界に起立している.

ニーチェは、あらゆる芸術の中で音楽だけは別格だと考えている.
「音楽は、他のすべての芸術のように現象の模写ではなくて、直接に意志そのものの模写であり、したがって世界のすべての形而下的なものに対しては形而上的なものを、すべての現象に対しては物それ自体を表現するからである」
「従って世界は、具象化された音楽であるとも、具象化された意志であるとも呼ぶことができよう」
ニーチェは、情景や心理を描写する音楽を卑下しているし、言葉を優先するオペラをぼろんちょにけなしている.
ニーチェのユニークさは、悲劇を音楽と等価だとみなしたことである.
彼はワーグナーを絶賛するが、例えば「ワルキューレの騎行」を聴くと、私は「あの映画の」ベトナムを飛ぶ戦闘ヘリの「情景」を思い出してしまう・・・

「ディオニュソス的人間と言いうのは、この意味ではハムレットに似ている。両者はともに事物の本質を本当に見ぬいた、つまり見破ったことがあるのだ。そこで彼らは行動することに嘔吐をもよおすのである。なぜなら、彼らがどのように行動したところで、事物の永遠の本質にはなんの変わりもないのであり、関節がはずれてしまったこの世を立てなおす務めなどをいまさら負わされることに、彼らは滑稽な感じ、あるいは屈辱感しかいだかないからである」
ニーチェもまた、見破った男なのだ.
「あなたたちは私に見習うがいいのだ、現象のたえまない移りかわりの中にも、永遠に創造し、永遠に生存へ強制し、この現象の移りかわりに永遠に満足している根源の母である私に!」
こう豪語するのは、世界の意思としてのニーチェの神である.

そうか、ヤクザ映画は「悲劇」そのものだったのだ.
八方塞がりで敵陣に斬り込み自滅するカタルシスは、正義が勝つことでも敵をなぎ倒すことでもなく、命に意味などないと叫ぶ声そのものである.
(意味がないから、生きられる.)
白刃の鋭い痛みを熱望する観客は、歯医者の痛みにも耐えられない.
血も凍るようなミステリーを読みながら、あるいはゾンビの恐怖を熱望しながら、読者はささいな健康不安にも耐えられない.
「どのようなものも、すべて発生した以上は、苦悩にみちた没落を覚悟しなければならぬ」
ニーチェは宗教でも道徳でもない、神話と芸術で、それを乗り越えようとした.
「人間はもはや芸術家ではない。彼は芸術品になってしまったのだ」という世界を夢見た.
しかし、私たちは、神話を捨て、苦悩から目をそむけ、芸術とはたかだか高級な娯楽のことだと思っている.


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